#author("2020-11-11T13:59:53+09:00","","") #author("2025-02-28T18:26:03+09:00","","") [[Actor]] [[Actress/貴倉良子]] [[Actor/高倉健/出演作品]] #ls2 #lsx *高倉健 [#sab6e62d] #ref(712A855A-531F-4E70-9990-E13CBEC100F7.jpeg) 高倉健 たかくら けん 本名:小田剛一(たけいち) 1931年〈昭和6年〉2月16日 - 2014年 〈平成26年〉11月10日 午前3時49分(83歳没)悪性リンパ腫 東京都内の病院で死去 俳優・歌手 愛称:健さん 身長180cm 体重71kg 血液型B型 高倉プロモーション所属 配偶者: 江利チエミ(1959年 - 1971年) 養女: 2014/05- 小田貴月 *Works [#u36f73ac] #ref(Movie/網走番外地/02.jpg) #br #ref(4A748D72-3616-4A70-B1C2-92229567BD87.jpeg) #br 1955年:東映ニューフェイス第2期生として東映へ入社 1956年:デビューで映画初主演 1964年:『日本侠客伝』 1965年:『網走番外地シリーズ』 1973年:『現代任侠史』 1975年:『新幹線大爆破』 1976年:『君よ憤怒の河を渉れ』 1977年:『八甲田山』 1977年:『幸福の黄色いハンカチ』 1978年:『野性の証明』 1980年:『動乱』 1980年:『遙かなる山の呼び声』 1981年:『駅 STATION』 1982年:『海峡』 1983年:『南極物語』 1994年:『四十七人の刺客』 1998年:紫綬褒章 1999年:『鉄道員(ぽっぽや)』 2006年:文化功労者 2012年:『あなたへ』 2013年:文化勲章 未完 映画『風に吹かれて』 *Add [#n29b0388] 健さんも[[莫迦娘>Actress/貴倉良子]]にひっかかって「此の彼の世」から消されたが、親族がナイス・フォロー #ref(A74C57EE-1B95-44E6-B405-FC44FF9D6612.jpeg) 週刊新潮WEB取材班 森健氏(54)。健さんの妹・敏子さんの息子、つまり甥に当たる人物で、職業はデザイナーだ。 東筑高校に在学中、英語教師の安永先生が、音読みの方が通りが良いからゴウイチにしろ、と。皆んなもそう呼べと指示して決まったそうです。なんとも大らかと言うか昭和と言うか」 「叔父のきょうだいは、長男・昭二、次男・剛一、長女・黎子、次女・敏子で男、女、男、女の順番。次男(高倉健)・次女(敏子)は身体が弱くて、事実、叔父は小学生のころ、1年間家で療養を余儀なくされています。それでもこの2人が長生きしている。人生わからないものですね」 #region(More!) #br 「長男・長女は亡くなっています。裕福な家の子であることは間違いなくて、“革靴で革ランドセルはとても恥ずかしかった”と叔父も母も語っていたことがあります。みんな裸足だったんですよ」 「2014年11月10日に叔父は亡くなったわけですが、事務所も含めてこちらに何の連絡もありませんでした。翌11日になってある確かな筋から情報を頂いて、母に電話したんです。“最近どれくらい前に話したか”と。“1カ月くらい前かな”という答えで、事務所に確認したところ、“亡くなっている”と言われ、呆然としました。12日のことですね」 〈没後の処置について、すべて高倉の意向に従ったまでだ。密葬で済ませ、戒名は不要、四十九日をするつもりがなく、鎌倉霊園の墓地にも入らず、散骨することになる。すべて高倉本人の考えだ〉 それから養女は、健さんが愛したはずのモノや場所の破壊に打って出る。フェラーリ・テスタロッサやマセラティなどの愛車コレクションやクルーザーを手放し、先に触れた鎌倉霊園の墓地の年間管理費を滞納するようになった。すべては〈故人の遺志〉というわけだ。 健さんがこだわって選んだ八光石でできた像は高さ1メートル。その奥には小さな墓石を建て、本名と役者名を組み合わせた「小田健史」の名ならびに「小田家先祖各霊菩提」と刻んでいた。 折に触れて健さんはここを訪ね、鎮魂を祈ってきた。だから、健さんが亡くなれば大きな墓石を置き、遺骨はここへ納骨される。そう誰もが信じて疑わなかったのだが……。 16年5月ごろ、養女の意向で、鎌倉霊園の墓地から水子地蔵や墓石が撤去されて更地となったのだ。 これと相前後し、健さんが愛し、そして養女も住み込んだ世田谷の豪邸の一部解体も始まっている。 「3年前、福岡県中間市にある小田家の菩提寺『正覚寺』の境内に、叔父の記念碑を建てることができました」 記念碑には、健さん直筆による「寒青」の二文字を認めることができる。寒青は漢詩の言葉で、風雪に耐えて青々と立つ「冬の松」の意。健さんは著書『旅の途中で』(新潮社)でも、「とても好きな言葉」と触れている。 3年前の11月4日には、記念碑の建立式と開眼法要が営まれ、親族をはじめ、東宝の島谷能成社長や40年来の付き人である西村泰治さんら、ゆかりのあった70人ほどが故人を偲んだ。お参りするところがない――。そんな状況が変わり始めた瞬間だった。 「お骨も全部ではありませんが一部戻ってきて、戒名も付けてもらってお墓に入っていますから、常識的な供養ができたかなと思っています。養女の方によると、“海に撒け”と叔父が言ったと言うことですが、私はそれを信じていません」 「品川プリンスの本館と別棟とをつなぐ庭に2階建てのカフェがあったんですが、そこを打ち合わせ場所にしていましたね。個室ではありませんが、人と会うときは、貸し切り状態にするんですね。そこに連れて行かれたこともありました」 「江利チエミさんは、僕が物心ついたころは、別れる直前でしたが、とても可愛がってもらったという印象しかないですね。ウチのお袋もまったく同じですね。叔父の世田谷の家が火事になって焼け出された後、一時期ホテル・オークラに仮住まいしていたこともあります。そこで(江利)チエミおばちゃんとちっちゃい犬2匹も一緒にいて、私もそこでコーヒー飲んだことは印象に残っています」 「チエミおばちゃんは明るくてとても良い人だった。ウチの親族とも良い関係で、私の祖父母、チエミおばちゃんにとっては義理の父母を福岡の実家に1人で訪ねることもありました。ウチのおふくろと一緒に3人で暮らしていたこともあったんですよ」 「叔父は健康オタクで、ジムには通っていましたよ。基本は筋トレですね。サプリメントも1960年代にはすでにアメリカから取り寄せていたと言います。1日に飲む分を小分けにして持っていましたね。酒は30年以上前から止めていました。一杯くらいは口にするんですがね。はっきり言いませんが、学生時代に何か失敗したことがあったんでしょう」 「1日1食なんですよ。晩飯しか食べない。ストイックだけどエピキュリアンでね。金沢に掘っ立て小屋みたいなステーキ屋があって、パッと行っちゃうんです。『ひよこ』という店でね。ラーメン屋にも顔を出していました。店の人を驚かすのが好きだったみたいですよ、突然行ったりして」 「一番仲の良かった俳優は渡瀬恒彦さんです。渡瀬さんのキャンプ場に会いに行って、そこで話す。渡瀬さんはインテリで話が面白いそうで、合気道とか共通の話題もあったし。渡瀬さんは喧嘩も強いんですよね」 「やりたかった映画は『ローマの休日』の日本版。グレゴリー・ペックの役がいいんだって言っていました。軽妙だけどドタバタ過ぎない、その感じが良かったみたいです」 「そのうち司令官の息子と親しくなって基地の中に入れてもらって会話を磨きつつ、チノパンとか白いボダンダウンシャツとかもらって帰ってくる。東筑高校では、英会話部を自分で作っています。ボクシング部も創設したんですけどね」 「何かのお祝いの時には、ローズギャラリーってところにオーダーした真っ赤な薔薇のセットが届きましたね。ホントに色んなものや言葉をもらったり受け止めたりしてきました。映画『幸福の黄色いハンカチーフ』の革ジャンももらいましたけれどね。“健に着せろ”とおふくろ宛に送ってきたことがありましたが、どこかに行ってしまいましたね(笑)」 #endregion #ref(70CCCC8C-CCE3-4B08-9D5A-FBA6364B4D5F.jpeg) #br #ref(FCA7BCA9-E67A-4023-BC11-FB6806798986.jpeg) 2020/11/19 沖縄タイムス 石垣市の小さな学校、富野(とみの)小中学校は、亡くなった俳優の高倉健さんと「文通」していたことがある。高倉さんが、運動会を見かけたのがきっかけ。贈られた双眼鏡は、宝物だ。かつて県内で高倉さんの映画看板を描いた職人も、突然の死去を惜しんだ。 ■差出人を見て「同姓同名だと」 【石垣】高倉さんが富野小中を訪れたのは1999年。ちょうど開かれていた地域総出の運動会を遠巻きに見守った。お年寄りが縄をなって長さを競い、周囲が声援を送る風景に、「日本の誇れる運動会」と感激した高倉さん。ラジオ番組で紹介し、手紙と録音テープを同校に送った。 当時校長だった鳩間真英さん(67)=石垣市=は「差出人を見て、同姓同名がいるんだね、と話していたら大俳優から。本当にびっくりしたし、感動した」。そこから、子どもたちがお礼の言葉のテープを贈り、双眼鏡を贈られ、校庭になったシークヮーサーを贈る、と交流が続いた。 高倉さんは手紙で、「きれいな自然を見てほしいと双眼鏡を贈ったが、自分の目で見た方がいいのかな」といったことを、遠慮がちに書いていたという。大ファンになった鳩間さんは「シャイで人情味のある方だった。亡くなって大変さみしい」と話した。 双眼鏡は今も、在校生17人がカンムリワシの観察などに使っている。高倉さんの訃報を聞き、学校のサイトで縁を紹介した宮良健教頭は「高倉さんとの交流は今でも語り草。思い出と品を大事にします」と語った。 ■思い込めて描いた「網走番外地 南国の対決」 高倉健さんと沖縄の縁は深い。健さんのスクリーンデビュー作は全編沖縄を舞台にした「電光空手打ち」(1956年)で、主役の空手青年を演じた。そして健さんの代表作「網走番外地」シリーズ第6作の「網走番外地 南国の対決」(66年)は、コザや守礼門でロケを行っている。 「健さんのファンだったし、ロケ地は沖縄。喜びの思いも込めて看板を描いた」と振り返るのは、豊見城市の看板製作業、大城敏夫さん(73)だ。20代から映画館に掲げる映画看板を描き始め、「網走番外地 南国の対決」も手掛けた。 映画全盛期に健さんや多くのスターを描いたことは、大城さんの強い思い出だ。「健さんと過ごした青春時代だった。身内が亡くなるのと同じくらい寂しい」と悲しんだ。 //// 高倉健さん 石垣島の学校で偲ぶ 11月10日 15時39分 NHK 俳優の高倉健さんの命日の10日、生前、交流のあった石垣島の学校で、運動場に黄色いハンカチ100枚が掲げられ、子どもたちが高倉さんをしのびました。 21年前の平成11年、石垣島に滞在していた俳優の高倉健さんは、島にある富野小中学校を訪れ、偶然、開かれていた運動会を見学しました。 その後、高倉さんは、学校に双眼鏡を贈ったほか、手紙で子どもたちと交流し、双眼鏡や手紙は、今も大切に保管されています。 6年前に亡くなった高倉さんの命日10日、学校で「偲ぶ会」が開かれ、児童・生徒13人と教職員が1分間の黙とうをしました。 宮川るり子校長が、高倉さんの学校との関わりについて説明し、「感謝の気持ちを忘れず、人と人とのつながりを大事にして、夢に向かって頑張れる人になってください」と呼びかけました。 学校の運動場には、高倉さん主演の映画にちなんで、黄色いハンカチ100枚が掲げられ、最後に参加者全員で記念撮影を行いました。 中学1年生の女子生徒は「高倉健さんに『いいな』と思ってもらえた学校に通っていることを誇りに思いました」と話していました。 #br #br