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[[Birds/動植綵絵]]

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*ライジング若冲 [#e85ce87a]

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2021/01/02 19:30- NHK ライジング若冲(じゃくちゅう)
//男たちの愛が、めくるめく美の世界を生んだ!?

【正月時代劇】ライジング若冲「天才かく覚醒せり」

2021/1月2日(土)
午後7:20〜午後8:45

中村七之助×永山瑛太W主演!男たちの愛がめくるめく美の世界を生んだ!?展覧会長蛇の列、史上最強の傑作絵画誕生の背景にあった運命の出会い!京都の男たち愛と涙の物語 >

江戸時代の天才絵師・伊藤若冲。謎に包まれた天才の実像を初めて本格的にドラマ化、綿密な考証と大胆な仮説に基づき、アートなエンターテインメントとして世に問う問題作。

<あらすじ>
時は宝暦年間。岩次郎(中川大志)が丁稚奉公する京の玩具屋に、僧侶・大典(永山瑛太)がやってきた。そこで謎めいた絵に大典は興味を引かれる。描いたのは錦市場の青物問屋の主・桝屋源左衛門(中村七之助)。女性や芸事に一切興味がないが、いい年で始めた絵にすっかりはまってしまった男だという。その源左衛門はある時、路上で茶をたてる謎の仙人・売茶翁(石橋蓮司)と偶然出会い「若冲」という名を譲ってもらう。そして売茶翁の紹介で、大典と運命的な出会いを果たす。大典は若冲にこう告げた。「あなたにはこの世の森羅万象を描いてもらいたい」。そして若冲は大典の取り計らいで、京の寺にある絵の模写修業に努めるのだが・・・傑作「動植綵絵」の影にあった男たちの絆とは?!

【放送予定】 
2021年1月2日(土)総合 BS4K 夜7時20分~8時35分&br;
16日(土)BSプレミアム 夜9時~10時30分「完全版」

【作・演出】源 孝志(「京都人の密かな愉しみ」「スローな武士にしてくれ」「令和元年版怪談牡丹燈籠」)

【音   楽】阿部海太郎

【出    演】
中村七之助 永山瑛太 / 中川大志 大東駿介 [[門脇 麦>Actress/門脇麦]] / 渡辺 大 市川猿弥 
木村祐一 加藤虎ノ介 / 永島敏行 石橋蓮司

【制作統括】宮坂佳代子(NHK)伊藤 純(NHKエンタープライズ)八巻薫(オッティモ)

【プロデューサー】 川崎直子(NHKエンタープライズ)八木康夫(オッティモ)

*伊藤若冲 [#r9a2522f]

伊藤 若冲(いとう じゃくちゅう)

1716年3月1日<正徳6年2月8日>-1800年10月27日<寛政12年9月10日>(84歳没)

山城国


京・錦小路にあった青物問屋「枡屋」(家名と併せて通称「枡源(ますげん)」)の長男


群鶏図


双鶏図


旭日鳳凰図

**Works [#f3ec8bc8]


-日出鳳凰図[にっしゅつ ほうおうず]:絹本着色。日出の旭日を背に飛翔する鳳凰。米国、ボストン美術館蔵(公式サイトに画像あり)。
-隠元豆 玉蜀黍図[いんげんまめ とうもろこしず]:紙本墨画、2幅。和歌山県、草堂寺蔵。
-糸瓜群虫図[へちまぐんちゅうず]:絹本着色、1幅。実る糸瓜に飛蝗や蝸牛など様々な虫が戯れる。本格的に絵筆を取って間も無い頃の作。文人大名として知られ、自らも書画をよくした伊勢長島藩主・増山雪斎のかつての愛蔵品。現在は京都の細見美術館が所蔵。
-風竹図[ふうちくず]:絹本墨画、1幅。京都、細見美術館蔵。


-旭日鳳凰図[きょくじつ ほうおうず]:絹本着色。宝暦5年(1755年)。雲海から昇る旭日と2羽の鳳凰。宮内庁三の丸尚蔵館蔵(旧御物)。


-雪梅雄鶏図[せつばい ゆうけいず]:白雪の頂いて咲く赤い山茶花の花に、雄鶏。京都、建仁寺両足院蔵。

-竹梅双鶴図[ちくばい そうかくず]:梅と竹に丹頂の番(つがい)。エツコ&ジョー・プライス・コレクション蔵。

-松鷹図(松に鷹図)[しょうようず / まつにたかず]:絹本墨画、1幅。松の枝に留まる鷹。エツコ&ジョー・プライス・コレクション蔵。

-紫陽花双鶏図[あじさい そうけいず]:絹本着色。「動植綵絵」内の同名作品とは同工異曲(描かれた時期はこちらが先)。米国カリフォルニア州、エツコ&ジョー・プライス・コレクション (Etsuko and Joe Price Collection) 蔵。

-竹に雄鶏図[たけに ゆうけいず]:40代前半の作とみられる。京都、宝蔵寺蔵

-髑髏図[どくろず]:拓版画。京都、宝蔵寺蔵


-鹿苑寺大書院障壁画[ろくおんじ だいしょいん しょうへきが]:50面の水墨障壁画。禅の師であった大典顕常との縁もあって宝暦9年(1759年)10月、44歳のときに手がけた代表作。鹿苑寺蔵、承天閣美術館保管(公式ウェブサイトに画像あり)。重要文化財。
--葡萄図[ぶどうず]:一の間襖絵4面。
--葡萄小禽図[ぶどう しょうきんず]:一の間床・違棚・壁貼付絵11面。

--松鶴図[しょうかくず]:二の間襖絵8面。松に丹頂1羽。
--月夜芭蕉図[げつや ばしょうず]:三の間床壁貼付絵4面。芭蕉の木が大きく茂る満月の夜。

--芭蕉叭々鳥図[ばしょう ははちょうず]:三の間襖絵8面。西側襖4面は右に芭蕉の木、左に飛翔する1羽の八哥鳥(叭々鳥)。南側襖4面は芭蕉の木と岩上に止まる1羽の八哥鳥。
-秋海棠図[しゅうかいどうず]:四の間襖絵6面。可憐な花咲く秋海棠の叢(くさむら)。

--双鶏図[そうけいず]:四の間壁貼付1面。

--菊鶏図[きっけいず]:四の間襖絵4面。

--竹図[たけず]:狭屋の間襖絵4面。

-釈迦三尊図[しゃかさんぞんず]:絹本着色、3幅対。当時東福寺に所蔵されていた伝張思恭作、実際は高麗仏画だと思われる「釈迦三尊像」[27]を見て感動した若冲が、原図をかなり忠実に模写した作品。ただし若冲は、原本の経年劣化を補うために衣紋線や色彩のコントラストを強調し、より装飾的な画面に仕上げている。明和2年(1765年)、「動植綵絵」中の24幅とともに相国寺に寄進された。相国寺蔵(公式ウェブサイトに画像あり)で、今でも文殊・普賢菩薩像は「観音懺法会」で伝吉山明兆筆の「白衣観音像」の両側に掛けられて礼拝の対象になっている。
--釈迦如来像[しゃかにょらいぞう]
--文殊菩薩像[もんじゅぼさつぞう]:獅子に乗る文殊菩薩。
--普賢菩薩像[ふげんぼさつぞう]:6牙の白象に乗る普賢菩薩。

-孔雀鳳凰図[くじゃくほうおうず]:絹本着色、双幅。重要美術品。広島藩浅野家伝来。長らく所在不明であったが、2015年に83年ぶりに発見されたと報道された。しかし、佐藤康宏は文化庁の先輩だった宮島新一と共に、30年ほど前にある生命保険会社で本作品を実見し、83年ぶりは誤りだと述べている。更に図版で見ると、動植綵絵の「老松孔雀図」と「老松白鳳図」、そして同じく三の丸尚蔵館にある「旭日鳳凰図」にそっくりで、これらより明らかに描写の密度で劣るため、未熟な初期作のようにも見える。しかし、落款の書体が初期の謹直な楷書ではなく、動植綵絵中期の草書体に似せているため矛盾が生じており、字のバランスも悪い。顔料や筆致、マティエールが若冲真筆と異なり、写し崩れも散見され、絵全体を有機的に構成していない。これらの理由から、細密模写を得意とした贋作者が、若冲画を忠実に模写した贋作だとしている。岡田美術館蔵。

-''動植綵絵''[どうしょく さいえ]:絹本着色。宝暦7年頃(1757年)- 明和3年(1766年)頃。経済的憂いの無かった若冲が時間と労力を存分に費やして描きあげた、30幅におよぶ大作。若冲によって相国寺に寄進されたものであったが、明治22年(1889年)、皇室に献上され、現在は宮内庁三の丸尚蔵館が保管(旧御物)。

-石峯寺 五百羅漢石像[せきほうじ ごひゃくらかん せきぞう]:羅漢石像群。通称「若冲五百羅漢」。安永5年(1776年)、61歳頃に着手。若冲が下図を描き、石工が彫刻。
-果蔬涅槃図[かそ ねはんず]:紙本墨画、1幅。釈迦涅槃図に見立てて果蔬(果物と青物[蔬、野菜])を描く。一見すると戯画的な手法だが、濃淡の墨を巧みに使い分け、筋目描きや墨のにじみ・カスレを駆使する多種多様な技法で、もの言わぬ野菜たちを本当に悲しんでいるように描き出し、涅槃図本来の宗教性を失っていない。従来は若冲の母が亡くなった安永8年(1779年)頃の制作とされたが、印章の欠損具合や、寛政期に下る「菜蟲譜」や「蔬菜図押絵貼屏風」と類似のモチーフや描法が認められる事から、寛政6年(1794年)以降の制作とする説が有力になりつつある。京都国立博物館蔵(「文化遺産オンライン」に画像あり)。重要文化財。
-白象群獣図[びゃくぞう ぐんじゅうず]:紙本墨画淡彩。現在は額装。正対する白象を中央に配し、周囲にさまざまな種類の獣を描く。製作過程が極めて手が込んでおり、まず画面に薄墨で9mm間隔に方眼を作り、その上から全体に薄く胡粉を塗る。そうして出来た碁盤目を淡い灰色で彩り、更に灰色の正方形すべてに4分の一よりやや大きい正方形を、先程より濃い墨で必ず方眼の上辺と左辺に接するように塗り分ける。その方眼の数は、縦136本横79本の計10774個。ここまでが下地作りで、その上に動物たちを淡彩を用い隈取りを施しながらグラデーションで描くという特異な技法から成る。この描き方は「枡目描き」と呼ばれ、若冲は西陣織の下絵から着想を得、織物の質感を絵画で表現しようとしたと考えられる]。50代後半から70歳代後半の作とされるが、「千画絶筆」印の使用から70歳代前半頃の作品だと想定できる。個人蔵(静岡県立美術館寄託)。

-樹花鳥獣図屏風[じゅかちょうじゅうず びょうぶ]:紙本着色、六曲一双。無款。右隻では正面を向く白象を中央に配し、周囲に獅子・豹・猪・栗鼠・麒麟・牛・兎・鹿・手長猿等さまざまな種類の獣と樹花を、左隻では鳳凰を始めとし、鶏・鵞鳥・雉・錦鶏・孔雀・七面鳥・鸚鵡・鴛鴦・白鷺等、多種多様な鳥と樹花を描く。伝来は不明で、元は右隻の《群獣図》のみ確認されていたが、平成5年(1993年)に現左隻の《鳥図》が発見され、一双の《樹花鳥獣図屏風》として静岡県立美術館に所蔵されるようになった。表装も対になるように改められた[34]が、右隻133.0x357.0cm、左隻137.5x364.0cmと左右で大きさが異なっている。「白象群獣図」と同様の技法だが、比較すると本作品はいい加減な箇所が目立つ。桝目の描き方が乱雑となって、四角というより円に近くなり、濃い彩色の部分もやはり円く、左上ではなく中央に塗ってある所も多い。更に下地であるはずの正方形の形が、絵のモチーフの彩色に干渉してしまっている。しかし、動植物自体のフォルムは若冲らしさを止めている事から、若冲自作ではなく、若冲の下絵を元に弟子たちが描いた工房作で、その完成度から何らかの染織品の下絵として制作されたと考えられる[34]。寛政2年(1790年)頃、若冲70歳代中頃の作[36]。静岡県立美術館蔵。

-仙人掌群鶏図襖絵[さぼてん ぐんけいず ふすまえ]:襖絵6面。寛政元年(1789年)か。75歳の款記がある。左端と右端の2面に仙人掌(サボテン)を配し、6面のそれぞれに品種・歳・性の異なる鶏12羽を描き分ける。大阪府、西福寺蔵。重要文化財。

-蓮池図襖絵[れんちず ふすまえ]:紙本墨画、6幅(襖絵から改装)。寛政元年(1789年)か。大阪府豊中市、西福寺蔵。重要文化財。

-群鶏図障壁画[ぐんけいず しょうへきが]:紙本墨画、9面。寛政元年(1789年)か。京都、海宝寺の方丈に描かれたもので、わずかに失われた部分を加えればおよそ10mにも及ぶ大作。京都国立博物館蔵(「文化遺産オンライン」に画像あり)。

-鶏頭蟷螂図[けいとう とうろうず]:絹本着色、1幅。寛政元年(1789年)か。鶏頭の真っ赤な花穂に留まる小さな蟷螂(カマキリ)1匹。個人蔵。


-菜蟲譜[さいちゅうふ]:合計159種類の野菜・茸・虫達が戯れる図巻。絹本著色、1巻、縦31.8cm、横1091.3cm。巻末尾のトウガンの中に「斗米庵米斗翁行年七十七歳画」落款があるが、若冲は還暦以降年齢を加算したとする説に従うと寛政2年(1790年)頃の作。冒頭の題字「菜蟲譜」は福岡撫山で、撫山は若冲から本巻を描き贈られたか、もしくは発注者だと考えられる。巻末の跋文は、儒学者で詩人の細合半斎の筆で、絵の完成後寛政8年(1796年)に記された。昭和2年(1927年)に恩賜京都博物館の展覧会に伴い刊行された『斗米庵若冲画選』に掲載され、その後昭和8年(1933年)に大阪美術倶楽部の売立に出されて以降行方不明になっていたが、平成11年(1999年)秋、佐野市の旧家・吉澤家に所蔵されていたことが公表され、そのコレクションを引き継いだ佐野市立吉澤記念美術館の所蔵となった。平成21年(2009年)に重要文化財指定されたのを契機に、全面的に解体修理が施され、光学的に調査された。先に調査された「動植綵絵」と比較すると、顔料(無機系材料)の使用が範囲・種類共に少なく、有機染料の使用が多く、鮮やかさでは劣るものの透明感のある瑞々しい色彩を得ている。裏彩色は、背景の墨色は全て裏から刷かれている反面、モチーフでの仕様は末尾近いダイコンの白は裏彩色のみである。また、「動植綵絵」は日本におけるプルシアンブルー最初期の使用例として注目されたが、「菜蟲譜」にはプルシアンブルーは使われていない[37](公式サイトに画像と解説あり)。

-石灯籠図屏風[いしどうろうず びょうぶ]:六曲一双。霧に包まれる山々を遠望し、立ち並ぶ石灯籠と老松の枝を描く。西洋の銅版画からの刺激も推測される点描技法が用いられている。景色のモデルとしては、江戸時代当時、石燈籠で有名だった奈良の春日大社とする説や、若冲晩年の拠点・石峰寺にほど近く、同じく石灯籠で当時知られていた伏見稲荷大社、とくに「四ツ辻」と呼ばれた地点だとする説がある。印章の欠損状況や、制作背景から寛政期の作品と推定。京都国立博物館蔵。

-群鶏図押絵貼屏風[ぐんけいず おしえばり びょうぶ]:石峯寺で暮らしていた頃の作品。京都、金戒光明寺蔵。

-象鯨図屏風(象と鯨図屏風)[ぞうとくじらず びょうぶ]:左隻に潮を吹く鯨の黒く巨大な背、右隻に不思議な造形の白象を描く、大胆な構図の作品。若冲に特有の筋目描き[39]による。平成20年(2008年)8月、北陸地方の旧家から発見された水墨画。落款に「米斗翁八十二歳画」とあり、晩年にあたる寛政7年(1795年)前後の作とされる。ただし、昭和3年(1928年)に紛失した同名の一図とは別物。滋賀県、MIHO MUSEUM蔵。

-鼠婚礼図[ねずみのこんれいず]:水墨画、1幅。落款「米斗翁八十一歳画」。婚礼を挙げ、酒を酌み交わす鼠達。京都、細見美術館蔵。

-信行寺花卉図天井画[しんぎょうじ かきず てんじょうが]:全168枚。内訳は花卉図167枚で、1枚は落款「米斗翁八十八歳画」墨書と「若冲居士」朱印が刻されている。花は牡丹30枚、キク15枚、梅10枚、朝顔・百合各6枚、杜若・水仙・蓮・藤各4枚(推測含む)が目立つところだが、渡来して間もない珍奇な植物を描く一方、野菜や山菜などの食用の植物も取り上げている。元は石峰寺観音堂の天井画で、観音堂は寛政10年(1798年)に完成しているので、天井画も同時期に描かれたと推測される。しかし、幕末に寺外に流出して古美術商の手に渡り、これを見た当時の檀家総代だった5代井上清六が入手し同寺に寄進した。なお、大津市義仲寺にある花卉図天井画15枚も、元々石峰寺観音堂天井画の一部である。信行寺蔵。

-百犬図[ひゃっけんず]:最晩年にあたる寛政11年(1799年、歿年の前年)の作か。59頭の仔犬を描く。個人蔵。

-虻に双鶏図[あぶにそうけいず]:ふくよかな2羽の鶏とその上を飛ぶ1匹の虻。
-付喪神図[つくもがみず]:紙本墨画、1幅。付喪神達の百鬼夜行。若冲画の写しと考えられている。福岡市博物館蔵。


*若冲vs北斎~夢の天才対決~ [#e69f70ac]

伊藤若冲(1716~1800年)

伊藤若冲(いとうじゃくちゅう)は江戸時代中期の画家です。20代後半から絵を描き始め、初期は狩野派に学び中国絵画の摸写を行います。しかし、それでは飽き足らず実物をひたすら写生、その後、独自の世界を構築するに至ります。

「動植綵絵」(どうしょくさいえ)

伊藤若冲は、伸緻密な線描と極彩色の作品で知られる一方、伸びやかな筆遣いとユーモラスな表現が特徴的な水墨画も数多く残しています。若冲作品の魅力は、動植物すべての生命に等しく向けられた画家の眼差しです。


葛飾北斎(1760~1849年)

葛飾北斎(かつしかほくさい)は世界で最も知られた日本の芸術家の一人です。江戸時代後期に浮世絵師として登場してから90歳で没するまでの約70年に及んだ北斎の画業は、常に新たな絵画の創造への挑戦の連続でした。度重なる画号の改名は有名ですが、画風もまた大胆に変え続けました。つまりは自らをUPDATEし続けた人生に他なりませんでした。代表作は、「冨嶽三十六景」や『北斎漫画』など。


放送 2019年3月2日(土)午後10時30分~[BSプレミアム]


*Add [#bec17ec4]

ラリ男なんかに司会やらすから絵も誤解され人が離れる

鶏を書くためにニワトリを飼っていたか、さもありなん

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