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*今東光 [#i209987f]

今 東光(こん とうこう)

1898年(明治31年)3月26日 - 1977年(昭和52年)9月19日(79歳没)S字結腸癌 急性肺炎/千葉県四街道市の国立療養所下志津病院

横浜生まれの天台宗僧侶(法名 春聽)、小説家、参議院議員


関西学院中学部第3学年の1学期 諭旨退学→兵庫県立豊岡中学校転校 退校処分→「以後独学」

大正時代後期、新感覚派作家として出発し、出家後、長く文壇を離れるが、作家として復帰後は、住職として住んだ河内や平泉、父祖の地、津軽など 奥州を題材にした作品で知られる。

元帝国劇場女優の人妻と結婚

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*Works [#t828dcd8]

今東光名義

-『稚児』鳳書房 1947年。序文谷崎潤一郎
-『人斬り彦斎』東京創元社 1957年。改題『北斎秘画』[7]徳間文庫 1986年
-『みみずく説法』光文社カッパ・ブックス 1957年
-『お吟さま』淡交社 1957年、新版1978年、のち角川文庫、新潮文庫、講談社文庫大衆文学館
-『闘鶏』角川小説新書 1957年、のち文庫
-『テント劇場』大日本雄弁会講談社ロマン・ブックス 1957年
-『悪童 第1部』現代社 1957年、のち角川文庫
-『春泥尼抄』講談社 1958年、のち新潮文庫、角川文庫
-『弱法師』筑摩書房 1958年
-『山法師』春陽堂書店 1958年
-『愛染地獄』浪速書房 1958年、のち徳間文庫
-『山椒魚』文藝春秋新社 1958年、のち角川文庫
-『尼くずれ』角川書店 1958年
-『一絃琴』筑摩書房 1958年
-『悪妻』中央公論社 1958年
-『百日説法』角川書店 1958年
-『東光辻説法』文藝春秋新社 1959年
-『みみずく説法』中央公論社 1959年
-『東光金蘭帖』中央公論社 1959年、のち中公文庫
-『悪太郎』中央公論社 1959年、のち角川文庫
-『弓削道鏡』文藝春秋新社 1960年、のち徳間文庫
-『裸の恋人』中央公論社 1960年
-『はだか説法』角川書店、1960年
-『こつまなんきん』講談社 1960年、のち角川文庫
-『東光おんな談義』講談社 1960年
-『東光独言』角川書店 1960年
-『河内の顔』講談社 1960年
-『河内風土記』新潮社 1960年、のち角川文庫
-『悪名』新潮社 1961年、のち角川文庫、新潮文庫
-『化身』角川書店 1961年
-『青春画譜』角川小説新書 1961年
-『僧房夢』角川書店 1961年
-『はぜくら』中央公論社 1961年
-『南米耳袋 和尚ラテンアメリカを行く』講談社 1962年
-『ひとり寝』中央公論社 1962年
-『愛染時雨』新潮社 1962年
-『現代人の日本史 元禄の哀歓』河出書房新社 1962年
-『悪徳』中央公論社 1963年
-『明日また』角川書店 1963年
-『生きろマンショ』文藝春秋新社 1963年
-『河内の風』講談社 1963年
-『好色夜話』新潮社 1964年
-『東光雑記』桃源社 1964年
-『河内ぞろ』講談社 1965年、のち徳間文庫
-『河内カルメン』徳間書店 1965年、のち徳間文庫
-『おしゃべりな真珠』講談社 1965年
-『弁慶』講談社、1966年
-『東光毒舌経 おれも浮世がいやになったよ』未央書房 1966年、浪曼、1974年
-『裸虫』新潮社 1967年
-『今昔物語入門 男とはかくも底抜けの色好みか』光文社 カッパ・ビブリア 日本人の知恵 1968年
-『女性葬送 東光辻説法』日本文華社 文華新書 1968年
-『姣童』講談社 1969年
-『華やかな死刑派』新潮社 1972年
-『東光太平記』全6巻 鹿島研究所出版会 1972年、のち「太平記」徳間文庫
-『蒼き蝦夷の血』全4巻 新人物往来社 1972-76年(絶筆)、のち徳間文庫
-『悪い使徒 青春無頼』実業之日本社 1973年
-『泥鰌おっ嬶ァ』番町書房 1974年
-『おゝ反逆の青春』平河出版社 1975年
-『青春の自画像』サンケイ新聞社出版局 1975年
-『青春放浪』光文社 1976年
-『毒舌心経』実業之日本社 1976年
-『吉原哀歓』徳間書店 1976年
-『武蔵坊弁慶』全4巻 学習研究社 1977-78年(未完)、のち徳間文庫
-『和尚の舌』ロングセラーズ・あまカラ選書 1977年
-『十二階崩壊』中央公論社 1978年(絶筆)。大正期の谷崎潤一郎らとの交流回想
-『毒舌・仏教入門』祥伝社 新書判 1990年、のち集英社文庫。1975年に近江・東南寺で行った5日間の戸津説法の全文
-『ポピュラー時代小説 今東光集』リブリオ出版 1998年

-毒舌身の上相談(1973年より『週刊プレイボーイ』(集英社)に連載した過激な人生相談) 集英社文庫
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原作映画

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-『異人娘と武士』阪東妻三郎プロダクション、井上金太郎監督、1925年、阪東妻三郎、関操
-『美男お小姓 人斬り彦斉』日活、佐伯清監督、八住和雄脚色、1955年、坂田藤十郎 (4代目)、山根寿子
-『春泥尼』日活、阿部豊監督、1958年、筑波久子、左幸子、岡田真澄 船戸順 環三千世
-『みみずく説法』東京映画、久松静児監督、1958年、森繁久彌(東光役)、司葉子
-『河内風土記 おいろけ説法』宝塚映画、久松静児監督、1961年、森繁久彌、原知佐子、加東大介、藤木悠、浪花千栄子
-『河内風土記 続おいろけ説法』宝塚映画、久松静児監督、1961年、森繁久彌、高島忠夫、浪花千栄子、山茶花究、花菱アチャコ
-『河内風土記 おいろけ繁盛記』宝塚映画、佐伯幸三監督、1963年、フランキー堺、進藤英太郎、池内淳子、伴淳三郎
-『河内カルメン』日活、鈴木清順監督、1966年、野川由美子、伊藤るり子、宮城千賀子
-『尼くずれ』大映、池広一夫監督、1968年、安田道代、三木本賀代
-『悪名』大映京都、田中徳三・森一生・安田公義・マキノ雅弘・増村保造監督・依田義賢脚色、勝新太郎、田宮二郎主演
-『お吟さま』松竹、田中絹代監督、成澤昌茂脚色、1962年、有馬稲子、仲代達矢、高峰三枝子
-『河内フーテン族』宝塚映画、千葉泰樹監督、伊福部昭音楽、1968年、フランキー堺、ハナ肇、野川由美子、酒井和歌子、藤木悠

-『お吟さま』東宝&大映京都、熊井啓監督 依田義賢脚色、伊福部昭音楽、1978年、中野良子・中村吉右衛門・志村喬主演&br;
秀吉の茶頭・千利休の娘・吟は、五年ぶりにキリシタン大名高山右近を、父の名代で高槻城へ訪ねた。吟は二十歳になる今日まで嫁入りもせず、幼なじみの右近を慕い続けてきたのだったが、妻のある右近はキリシタンの教えにそむいてまで、吟の思いを受け入れようとはしなかった。利休は大阪城で、石田三成から吟の縁談を持ちかけられる。気の進まぬ吟は、高槻から明石へお国替え中の右近に心中をうちあけるが、彼は冷たくあしらうのだった。万代屋宗安に嫁いだものの、吟の右近に対する思いは増すばかりであった。天正十五年十月、北野の大茶の湯が催された際、吟の美貌に秀吉は激しく心を動かされる。三成と宗安は、吟を秀吉に差し出し、おのれの栄達を画策する。一方、キリシタン禁制の布令で身を隠していた右近のもとへ、吟は馬を走らせ、御身の危急を知らせる。そして、九州まで一緒に連れて行ってくれと哀願する吟に、右近は困惑しながらも、彼女と添い寝する。しかし、右近は吟に心を残しながらも、彼女を置き去りにし、絶望の淵にたたき込む。天正十八年、秋深き大阪城にむかえられた吟は、黄金の茶室で秀吉から求愛の言葉を受けた。翌年一月、卑怯極まる秀吉の横恋慕に、利休は命に代えても吟を守ろうと、身をひそめていた右近に、吟の加賀への同行を頼む。その夜、利休一家は揃って別離の宴をはったが、千家はすでに秀吉の軍勢に包囲されていた。逃れるすべのなくなった吟は、白無垢の死装束に身を正し、右近に別れの書状を残し離れ座敷へと姿を消す。二月二十八日、太閤秀吉の命により、利休は切腹する。高山右近はルソンに追放され、マニラでその生涯を閉じた。


*Add [#p723fc07]

JHOH
@third02076655
#今東光 曰く「#自民党 の派閥はいろんな政党の
役割を果たしているから野党は必要ない」(「週プレ」人生相談より)
さもあらん、野党はいらん鴨葱音頭.
民主とかが政権をとったことがあるがやったこと
は消費税導入と介護保険料を年金振込から天引き
することだった.支持した老人らが血を吐いて後悔
し死んでいったよ.
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1973年11月 瀬戸内晴美の中尊寺での出家得度:師僧となり「春聽」の一字を採って「寂聴」の法名を与える
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川端康成 今東光が死んだとき「あの脳みそが灰になるのか、もったいない」

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一高のモグリ学生となり「盗講」(川端康成と交際)


佐藤春夫宅で谷崎潤一郎に遇い、谷崎の非常勤無給秘書

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