組が解散してヤクザ稼業から足を洗いカタギ となった倉田組でその名を知られた不死鳥の哲こと本堂哲也が対抗組織 の大塚組との抗争を避けるために自ら東京を去るが大塚組に追 われて雪国へ逃げる。 そこでも地元の組どう しの争いに巻きこまれるが兄貴分の相沢健次 に助けられて、倉田の舎弟で相沢の兄貴分の梅谷が いる佐世保へ向かう。 佐世保で哲は、再会した相沢から倉田が大塚組に寝返り、梅谷に哲の殺害を命じた事を聞かされて、単身で 真実を確か めに東京へ帰る。 東京へ帰った哲 は倉田の裏切りを確かめ、大塚組へ殴りこみ大塚とその子分を殺し倉田に盃を返す。 倉田は自殺して哲は恋人の千春に別れを告げて夜の闇に向かって去って行く 。
東京流れ者
続・東京流れ者 海は真っ赤な恋の色
東京文現社原作の川内康範の小説を映画化した作品で、東京流れ者の続編
渡 哲也(わたり てつや)
島根県能義郡安来町(現・安来市)生、兵庫県淡路島育
1941年12月28日 - 2020年8月10日(78歳没)肺炎
終戦後の物資不足で長男と四男は死亡
淡路町立石屋小学校、三田学園中学校・高等学校(6年間の寮生活)、青山学院大学経済学部卒
空手弐段/柔道初段
俳優・歌手
本名、渡瀬 道彦(わたせ みちひこ)
身長 180 cm
血液型 B型
弟:渡瀬 恒彦(わたせ つねひこ)俳優・歌手 1944年7月28日-2017年3月14日(72歳没)胆嚢癌による多臓器不全
配偶者: 1971/03 渡瀬俊子/青学大の同窓生 /渡さんが1年先輩/1971年3月ハワイで挙式/長男(ゼネコン勤務)
活動内容
2020/08/16 sanspo 女優の吉永小百合(75)や安倍晋三首相(65)の母、安倍洋子さん(92)から供花が届けられたが、故人の遺志を尊重して名札だけ受け取った。
2020/08/16 sponichi 自宅には清酒「松竹梅」のCMでも共演を続けた女優吉永小百合(75)から供花が届いたが、幹部は名前が書かれた木札のみを受け取り「頂いたこととさせていただきます」と頭を下げた。
2020/8/15 日ス 渡さんは今月9日、自宅から都内病院に救急搬送され緊急入院した。医師には長くても2週間と告げられたが、翌日10日午後6時半、妻俊子さんに見守られて息を引き取った。関係者によると新型コロナウイルス感染症ではないという。法名は00年2月、故郷の兵庫県淡路市の高雄山観音寺で授かっており、萬修院泰然自道居士(まんしゅういんたいぜんじどうこじ)。 14日に家族葬
最後の仕事は放送中の宝酒造「松竹梅」CMのナレーション収録。6月下旬に行った。同CMは生前の裕次郎さんとの共演。裕次郎さんとのCM初共演作だったがコロナ禍で撮影日程が延び、体調も思わしくなく、スタジオに赴き撮影することはできなかった。 マスコミの前に公に登場した最後は17年9月30日、吉永小百合と行った宝酒造のCM撮影。理学療法士の指導でストレッチやスクワットなどのリハビリをし散歩していると明かした。吉永とは66年公開「愛と死の記録」で初共演して以来の付き合い。気心知れた間柄で渡さんは「元気になったら最後の1本は吉永さんとご一緒したい」。再び映画に出ることを目標にリハビリにも励んでいたが、かなうことはなかった。 17年3月に弟の俳優渡瀬恒彦さんが72歳で亡くなったことは大きな悲しみだった。「この喪失感は何とも言葉になりません。つらさが募るばかりです」とのコメントを発表、渡瀬さんが最後まで現場復帰を願いかなわなかったことを知ると「無念です」と話した。
2020/08/14 19:44 NHK 渡哲也死去(08/10 18:30肺炎)78歳
これまで、渡哲也を応援して下さった皆様にご報告させて頂きます。弊社、渡哲也が長きにわたり、病との闘いの末、さる令和2年8月10日午後6時30分に肺炎のため享年79をもって都内の病院にて旅立ちました。ここに生前のご厚誼を深く感謝致しますとともに、謹んでお知らせ申し上げます。葬儀につきましては静かに送ってほしいという故人の強い希望により本日、家族葬という形で執り行わせて頂きました。誠に勝手ながら、ご香典、お供物、ご弔電、ご供花などの儀は故人の遺志により固くご辞退申し上げます。なお、お別れ会、しのぐ会などの実施につきましては、故人の意向により執り行いません。何卒、故人の遺志をご理解頂けますようお願い致します。皆様のお心のなかにて故人への祈りを捧げて頂けますことを心よりお願い申し上げます。 令和2年8月14日 株式会社石原プロモーション
吉永さんと 結婚するんだと推測してたから 普通の人と一緒になったと聞いて 意外な気がした。 悪友曰く 「いい女とたくさんやったから、もういいんじゃないか」 納得した
2020/08/14 mainichi
兵庫県出身。青山学院大在学中の1964年、所属していた空手部員が勝手に応募したオーディションのため撮影所に行き、食堂でスカウトされて日活入り。65年に「あばれ騎士道」(小杉勇監督)で宍戸錠さん演じる主役の弟役でデビューした。同年の「青春の裁き」(同)に主演、日本映画製作者協会(当時)新人賞に輝き、以後、「東京流れ者」(鈴木清順監督)や「愛と死の記録」(蔵原惟繕監督)などに立て続けに出演し、日活のニューアクションスターの一人となった。舛田利雄監督の「『無頼』より 大幹部」では一匹オオカミの若いやくざを鮮烈に演じ、シリーズ化された。
71年に日活を離れ、石原裕次郎さん率いる石原プロモーションに移籍した。74年にはNHK大河ドラマ「勝海舟」の主演を射止めるも、胸部疾患で途中降板、松方弘樹さんが代役となった。しかし、75年の「仁義の墓場」(深作欣二監督)に主演し華々しく復帰。翌年の「やくざの墓場 くちなしの花」(同)では毎日映画コンクール男優演技賞を受賞した。 その後、活躍の場をテレビに移し、ドラマ「大都会」や「西部警察」では「角刈りにサングラス」姿の刑事役でカリスマ的人気を得た。87年に石原さんが死去した後、石原プロの2代目社長に就任した。 歌手としても活躍し、73年リリースの「くちなしの花」が大ヒットし、翌年NHK紅白歌合戦に初出場を果たした。 91年には直腸がん手術を公表。映画「時雨の記」(澤井信一郎監督)や、橋田寿賀子さん脚本のドラマ「夫婦」「結婚」で熟年男性を好演するなど俳優として活躍し続けた。 毎日新聞社主催の小児がん征圧キャンペーン「生きる」にも積極的に参加し、病気と闘う子供たちを励ました。また、阪神大震災や東日本大震災の被災地に石原プロ所属の俳優らと訪れ、炊き出しをして支援した。2005年紫綬褒章。
<映画>
<ドラマ>
<レコード>
「西部警察」も「太陽にほえろ!」も見なかったし見たくなかった 若い頃イカスちんぴら役をやっていたのに、年取ってからお巡りじゃ シャレになんない
セリフ
「流れ者には女は、いらねえんだ」
ひとつのセットをつくり、そん中でパッとドタバタをつくるんだな