佐藤 昭子(さとう あきこ) 娘:敦子の戸籍上の父は二番目の夫 旧名:佐藤 昭(さとう あき) 1928年(昭和3年)8月5日 - 2010年(平成22年)3月11日 享年82(満81歳)肺癌 政治家秘書、政治運動家。33年間にわたって田中角栄の秘書を務め、その愛人であったといわれ「越山会の女王」と称された。後に「政経調査会」を主宰
身長157cm B97 W58 H95
夫:加藤家司(1946/09-1952)→東電男(1954(S29)08-1962(S37))→愛人
1928年8月5日、新潟県刈羽郡枇杷島村(現・柏崎市)に生まれた。両親は雑貨店を営んでいた。6人きょうだいの末っ子であったが、1人の姉は昭の出生前に死亡しており、1944年(昭和19年)までに父母、2人の兄、2人の姉と死別した。枇杷島小学校3年からそろばん塾に通って1級を取得し、数学・習字・体育が得意であった。1941年(昭和16年)小学校卒業後に進学した新潟県立柏崎高等女学校(5年制、のち4年制に変更。現・新潟県立柏崎常盤高等学校)では級長を務め、陸上部の短距離走の選手であった。数学の先生になりたいと願い、1945年(昭和20年)東京女子専門学校(3年制。現・東京家政大学)に進学したが、東京大空襲で学校が焼失、戦時教育令により授業が停止されたため中退した。1946年(昭和21年)衆院選時に選挙活動をしていた田中角栄と出会い、選挙活動を手伝った。田中の応援演説を行なった男性との結婚・離婚、息子の出産と離別、キャバレー勤務を経て、1952年(昭和27年)に田中の秘書となった。イトーピア平河町ビル内の田中の個人事務所にあって田中の政治団体・越山会の統括責任者などの要職を歴任した。この間、キャバレーの客であった東京電力社員の男性と二度目の結婚・離婚を経験し、1957年(昭和32年)に田中の娘と見られる敦子を出産。敦子の戸籍上の父は二番目の夫であったため、後に敦子は自分の出生に悩み、自殺未遂を繰り返した。
死後、昭子の寝室の金庫を開けた敦子は、田中角栄が昭子や敦子に宛てて書いた手紙を発見した。この手紙は「田中角栄の恋文」として『文藝春秋』2011年(平成23年)11月号に立花隆の解説と共に掲載された。田中は総裁選挙で勝利した1972年(昭和47年)7月5日、昭子に「愛君山岳心不移」と書いている
小沢一郎は病院で遺体と対面し、「ママ、お世話になったね」と小さく呟き、涙を流した
田中の秘書になった頃の佐藤の身長は157センチメートル(cm)で、バストは97 cmもあったが、ウェストは58 cmしかなく、ヒップは95 cm 敦子は著書の表紙裏に、4歳の夏に母に連れられて行った柏崎の鯨波海水浴場で巨岩に腰掛けた二人の写真を載せ、33歳だった佐藤のグラマーな水着姿を伝えている
神楽坂の芸者・辻和子
坂本はな→田中はな (1942年 - 1993年)]娘:田中真紀子
1941年(昭和16年)10月に除隊、翌月に東京の飯田橋で田中建築事務所を開設し、1942年(昭和17年)3月に事務所の家主の娘、坂本はなと結婚
2024/01/08(月)
旧田中角栄邸の敷地内で火事 ポンプ車など19台出動 消火活動続く 東京・文京区
午後3時前、東京文京区の旧田中角栄邸の敷地内で火事がありました。現在、延焼中で消火活動が行われています。
午後3時半前、文京区目白台で目撃者から「田中角栄さんの家の方向からものすごい煙が出ている」と通報がありました。
警視庁によりますと、現場は目白台運動公園の近くで、元総理大臣の旧田中角栄邸の敷地内だということです。ポンプ車など19台が出動し、消火活動にあたっていますが、これまでのところ、逃げ遅れた人やけがをした人はいないということです。
檜山広 ひやま-ひろ
1909-2000 昭和時代後期の経営者。 明治42年12月18日生まれ。昭和7年大同貿易(のち大建産業,丸紅)に入社。繊維中心だった同社を総合商社に脱皮させるのに力をつくし,39年社長,50年会長。51年ロッキード事件で田中角栄首相へ5億円を贈賄した容疑をうけ会長を辞任。逮捕され,平成7年最高裁で懲役2年6ヵ月の実刑判決が確定した。平成12年12月25日死去。91歳。茨城県出身。東京商大(現一橋大)卒。
愛君山岳心不移==君を愛す山岳の心は移らず←君を愛すること山岳の如く移ろわず かな