大日本悪党列伝

ザビエル

◇領民を奴隷として売ったキリシタン大名たち

しかし、いつの世にも売国奴はいるもので、九州のキリシタン大名がそれです。たとえば、長崎港を開港した肥前国の大村純忠は、ポルトガル人から鉄砲や火薬など最新兵器の供与を受ける見返りとして、イエズス会の神父から洗礼を受け、日本で最初のキリシタン大名となったのですが、武器弾薬を求めた動機は、お家騒動に勝利するためでした。

その信仰は過激で、領民たちに改宗を強要し、拒否する仏教の僧侶や神官は殺害しました。さらに神社仏閣も破壊すると、その廃材をポルトガル船の建材用に提供したのです。先祖の墓も壊し、改宗に従わない領民を奴隷として海外に売り飛ばしました。武器購入の代価にされたのです。

豊後の国の大友宗麟は、宿敵・毛利元就を撃退するために、火薬の原料である硝石の供給をイエズス会から受け、鉄砲戦によって毛利を破ると洗礼を受けてキリスト教徒となり、今度は十字架を掲げて日向国に攻め入りました。

大友宗麟の野望は、日向国の全領民をキリスト教徒に改宗させ、ポルトガルの法律と制度を導入してキリスト教の理想郷を建設することで、宣教師たちの言いなりになって現地の神社仏閣を焼き尽くしました。

島原半島南部を支配していた小領主の有馬晴信(大村純忠の甥)は、龍造寺隆信に圧迫されると、イエズス会からの支援を得るために洗礼を受け、キリスト教徒となりました。

軍事力を強化して和睦に成功すると、宣教師の求めるままに、家臣・領民の入信に加えて、40か所以上の神社仏閣を破壊したばかりか、領内の未婚の少年少女を捉えて奴隷として献上し、さらに浦上の地まで差し出してしまいました。

これらキリシタン大名によって、世界中に奴隷として売り飛ばされた日本人は5万人ほどになると言われています。それを目撃したのが、大村純忠がキリシタン大名の名代としてローマに派遣した天正遣欧使節の少年たちでした。

彼らは航海の途中、海外のさまざまな土地で、子どもまで含めた日本人男女が奴隷として使役されているのを見て、大きな衝撃を受けます。

ちなみに、日本にいたポルトガル宣教師が奴隷売買の酷さを見かねて、当時のポルトガル王のドン・セバスチャンに進言した結果、1571年に「日本人奴隷の買い付け禁止令」も出されたのですが、奴隷売買はなくなりません。

ポルトガルの奴隷商によって買われ、ブラジル・アルゼンチン・ペルーなどに売られた日本人奴隷の記録は、多くの公文書に残されています。 山岡鉄秀:著『シン・鎖国論 -日本の消滅を防ぎ、真の独立国となるための緊急提言-』(方丈社:刊)

豊臣秀吉がキリスト教を禁止したのは、日本人が奴隷として売買されていたからだった

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役 2024/2/6(火) 5:00

16世紀になると、イエズス会は各地に宣教師を派遣したが、同時にポルトガルの商人も貿易を求めて海外に渡航した。東南アジアなどでは、ポルトガルの商人による人身売買が行われており、売買された人々は奴隷としてポルトガルに送られるか、転売されていた。キリスト教の布教と貿易はセットだった。  秀吉の時代になると、日本人奴隷が船に積まれ、ヨーロッパに連行されるという悲劇的な事態が生じていた。そのことを記すのが、秀吉の御伽衆だった大村由己の手になる『九州御動座記』である。  同書は、秀吉による九州征伐の際の行軍記録である。そこには、日本人奴隷の惨状を目の当たりにした秀吉の見解が述べられている。少し長いが、以下に関係する部分を挙げておきたい。 今度、伴天連ら能時分と思い候て、種々様々の宝物を山と積み、いよいよ一宗繁昌の計賂をめぐらし、すでに河戸(五島)、平戸、長崎などにて、南蛮船付くごとに充満して、その国の国主を傾け、諸宗をわが邪法に引き入れ、それのみならず、日本仁(人)を数百、男女によらず黒船へ買い取り、手足に鉄の鎖をつけ、舟底へ追入れ、地獄の呵責にもすぐれ、そのうえ牛馬を買い取り、生ながら皮を剥ぎ、坊主も弟子も手つから食し、親子兄弟も礼儀なく、ただ今世より畜生道のありさま、目前のように相聞え候。

見るを見まねに、その近所の日本仁(人)いずれもその姿を学び、子を売り、親を売り、妻女を売り候由、つくづく聞こしめされるるに及び、右の一宗御許容あらば、たちまち日本、外道の法になるべきこと、案の中に候。然れば仏法も王法も捨て去るべきことを歎きおぼしめされ、添なくも大慈大悲の御思慮をめぐらされ候て、すでに伴天連の坊主、本朝追払の由、仰せ出され候。

 冒頭部分では、日本で得た宝物(金・銀など)を船に積み込み、母国へ送った様子がうかがえる。また、数百人の日本人が男女に拠らず、ポルトガル商人に買い取られ、逃げられないように手足が鉄の鎖につながれ、船の底に押し込まれた様子がうかがえる。まさしく地獄絵図だった。  そして、ポルトガル人は牛馬を買い取ると、生きたまま皮を剥いで、そのまま手でつかんで食べたという。ポルトガル人は親子兄弟の間にも礼儀がなく、さながら畜生道の光景だった。問題だったのは、近くの日本人がポルトガル人の姿(人道に外れた行為)を真似て、子、親、妻女を売り飛ばしたことである。  このような阿鼻叫喚の地獄絵図を面前にすれば、誰もが眼を背けたくなるに違いない。秀吉は、特にその思いが強かったようである。こうして天正15年(1587)、秀吉は伴天連追放令を発布し、キリスト教の布教を制限することになった。同時に、日本人を売買しないように申し入れた。その一方で、秀吉は貿易の利益を得たいと考えており、板挟みになったのである。


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Last-modified: 2024-03-18 (月) 22:10:45