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株式会社石原プロモーション(いしはらプロモーション)
俳優の石原裕次郎が設立
芸能事務所、制作プロダクション
本社: 〒182-0024 東京都調布市布田4丁目20番地 調布シティビル3階
略称・通称「石原プロ」
代表者 代表取締役会長 石原まき子
資本金 3000万円
純利益 2374万8000円(2017年12月31日時点)
総資産 47億0709万4000円(2017年12月31日時点)
従業員数 30人(所属タレントを除く)俳優9人
所属俳優 渡哲也 舘ひろし 神田正輝 徳重聡 金児憲史 池田努 宮下裕治 神田穣(エヴァーグリーン・エンタテイメント移籍) 増本尚 1982~1989 石原良純 1976〜2000 峰竜太
主要子会社
<石原プロモーションの歩み>日ス
▼1963年1月16日 石原裕次郎さんが設立、社長就任。社員9人スタート
▼同10月 石原プロが手掛ける映画第1作目「太平洋ひとりぼっち」公開
▼68年2月 映画「黒部の太陽」公開。観客動員733万人
▼69年7月 映画「栄光への5000キロ」公開(成功)
▼70年 映画「ある兵士の賭け」が興行的に失敗し、倒産の危機に陥る
▼71年 渡哲也入社
▼73年 神田正輝入社
▼76年 1月に日本テレビ系で、初めてドラマ制作を手掛けた「大都会 闘いの日々」放送開始。パート3まで
▼79年 テレビ朝日系「西部警察」放送開始。パート3、スペシャルまで
▼81年4月 裕次郎さん、解離性大動脈瘤(りゅう)破裂で入院、手術
▼83年 2月に舘ひろし入社。5月に創立20周年パーティー
▼84年 裕次郎さん、幹細胞がんの診断を受けハワイで静養
▼87年7月17日 裕次郎さん死去。渡が社長に就任
▼88年12月 日刊スポーツ映画大賞/石原裕次郎賞が始まる
▼91年7月 小樽市に石原裕次郎記念館オープン
▼95年2月 阪神淡路大震災被災地で炊き出し
▼99年7月 鶴見・総持寺で裕次郎さん十三回忌法要。20万人参列
▼00年8月 21世紀の石原裕次郎を探す「1億人の心をつかむ男」オーディションで徳重聡がグランプリ
▼09年7月 東京・国立競技場で二十三回忌法要。献花まで最大6時間
▼11年 渡が社長を退任、俳優業専念。まき子夫人が会長就任。 2011/03 小正退任。同4月、東日本大震災被災地で炊き出し
▼16年6月 熊本地震被災地で炊き出し
▼17年8月 石原裕次郎記念館閉館
▼19年7月 三十三回忌で弔い上げ
▼21年1月 商号返還(予定)
2020/07/17 社長挨拶
2021年1月16日(1963年1月16日石原裕次郎起業)を持ちまして、株式会社石原プロモーションの商号を故石原裕次郎氏仏前に返還することに全員一致で決定いたしました。 芸能部業務に関しましては、俳優の所属契約をなくして今後に於いて双方で話し合い誠心誠意をもって考えてまいります。 版権管理業務等に関しましては、以下の法人で行う予定です。 1.株式会社石原音楽出版社 音楽、映像遺品、肖像権等の管理、展示業務等 2.一般社団法人ISHIHARA(2020年起業予定) 遺品等の保管、維持管理等 当面は弊社にて従前の業務を継続いたします。五十数年にわたり弊社を支えてくださいました皆様方に心から感謝申し上げます。本当にありがとうございました。 末筆ながら謹んで申し上げます。この様な結論にいたりましたその訳を、私石原まき子よりご説明させていただきます。 昭和62年7月17日石原裕次郎が亡くなる際に「俺が死んだら即会社をたたみなさい」これが遺言でした。しかし、俳優さん、スタッフの皆さんはいつも生き生きとされていて会社に対する愛情の強さがひしひしと感じられ、この人達ならば会社を、お任せするべきと思い、遺言を言い出す事が出来なくなっておりました。その結果として皆様方ご存じのとおり、亡き後30数年間無事に会社を運営して頂いた次第です。 しかし私も高齢と体力の低下により実務が難しくなる事が多くなって参りました。そこで渡さん、舘さん、神田さん、役員、スタッフの皆さんに相談いたしました。「裕次郎さんらしく惜しまれるうちに株式会社石原プロモーションの商号を返しても裕次郎さんは承知してくれるのではないですか」と賛同を頂きましたここで遺言を実行いたしました。 この様な重大な事柄を突然記者会見も無しに発表致しますことをお許しくださいませ。俳優さん達の今後に関する詳細は、当方にてしっかりと責任をもって対応してまいる所存でございますので、何卒あたたかくお見守り頂ければ幸いです。 50数年間に渡り皆様方には株式会社石原プロモーションを陰日向なく支えて頂き心より感謝申し上げます。略儀失礼ながら書面書中をもちましてお知らせ申し上げます。長きに渡り本当に有難うございました。 株式会社石原プロモーション 代表取締役会長 石原まき子
◎小林 正彦 (こばやし まさひこ)
三重県出身
ホテル専門学校、日活が経営する日活ホテルに入社、フロントボーイ、系列の日活撮影所に異動、兄慎太郎の肝いりで、1965年石原プロモーション入社
慎太郎、都知事選出馬の際、2億円をかき集め、裕次郎とともに兄自宅へ持ち込む
2003年 ドラマ『西部警察2003』撮影中に発生した人身事故で業務上過失致傷罪(罰金の略式処分)
2011年5月11日 小林は健康上の理由から石原プロモーション専務取締役を2011年3月28日付で退任
1936年1月1日 - 2016年10月30日 虚血性心不全(80歳没)
元ホテルマン
テレビプロデューサー、芸能マネージャー
石原プロモーション元代表取締役専務、ウェブクウ取締役
愛称:コマサ、小林専務
▼中井景(プロデューサー・元専務)
▼銭谷功(プロデューサー)
『ある兵士の賭け』など興行的に失敗
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同社相談役の渡哲也(78)は残る
2020/07/16 sponichi 中心として支えてきた渡、舘、神田は独立する方向で調整し、00年のオーディション「21世紀の石原裕次郎を探せ!」でデビューした徳重聡(41)、金児憲史(41)らは他事務所への移籍の道を選ぶことになりそうだ。 1987年7月17日に裕次郎さんが他界後、渡が2代目社長として引っ張り、被災地での炊き出しや、国立競技場で11万人を集めて裕次郎さんの二十三回忌を開催するなどして軍団の男気を見せてきた。だが11年、渡が健康上の理由や社長在籍期間が裕次郎さんの社長在籍期間と同じ24年目を迎えたことで退任し、大番頭だった小林正彦さん(16年死去、享年80)も去り、近年の活動は縮小に向かっていた。渡はその後、相談取締役として裕次郎の妻で会長の石原まき子さん(86)をサポートしてきたが、関係者によると、今回の幕引きはまき子さんも高齢となり、元気なうちに区切りをつけたいとの思いがあった。 渡は本紙の取材に「主が亡くなって30年余り。よくやったと思います」と話している。 同社は今月3日付で石原裕次郎記念館を運営していた子会社の石原インターナショナルを清算。今後は石原音楽出版が裕次郎さんの音楽関係の版権や遺品の管理を担っていく。石原プロによると、今後の方向性を記したまき子さんの手紙が今月17日の裕次郎さんの命日に関係各所に届くという。昨年の命日には三十三回忌法要をもって弔い上げとし、公の供養は行わないと発表していた。
2020/07/16 sanspo
石原軍団解散…舘ひろし&神田正輝が独立へ 渡哲也が決断、石原プロ来年にも俳優マネジメント終了
国民的スター、石原裕次郎さん(享年52)が設立した石原プロモーション所属の俳優、舘ひろし(70)と神田正輝(69)が来年にも独立する意向であることが15日、分かった。同社が俳優マネジメントを終了するためで、若手は移籍へ。渡哲也(78)はフリーで芸能活動を続けるとみられる。石原プロは今後、裕次郎さんの遺品管理を中心に業務を行い、17日の故人の三十四回忌に妻で同社会長の石原まき子さん(86)から事業縮小などを伝える手紙が関係各所に届けられる。
1963年の石原プロ設立から57年-。昭和に誕生した名優ぞろいの石原軍団が令和で“幕引き”となる。 裕次郎さんは昨年7月17日に三十三回忌を迎え、まき子夫人は舘ら石原軍団と墓参した際、弔い上げを宣言していた。 生前、裕次郎さんに「俺が死んだら会社を畳んでくれ」と遺言されていた渡は、2015年に急性心筋梗塞の手術を受けるなど自身の体調を考慮して同プロの“引き際”を考えてきたが、三十四回忌の今年、新たなけじめを模索。まき子さんと相談し、石原プロの事業縮小とともに俳優マネジメントから撤退することを決断した。裕次郎さんの命日の17日、まき子さんから関係各所に石原プロの今後や渡の思いについてつづられた手紙が届くという。 俳優マネジメントの終了に伴い、舘と神田は来年にも独立する意向を固めた。自身がしっかりしているうちに、軍団や会社の今後を見届けたい渡の気持ちをくんだ形だ。徳重聡(41)、金児憲史(41)の中堅や若手も移籍することになる。 現在、自宅で療養しながら宝酒造のCMに出演するなどマイペースに仕事をこなす渡は、いずれ同社の相談役から退き、フリーで活動するとみられる。 ある関係者は「今年は軍団の解散はない。まき子さんや渡さんは社員や俳優の行く先を決めてから、と考えているから、このタイミングで発表するのでは」と証言。舘と神田の独立について本紙の取材に応じた浅野謙治郎社長は「聞いていないが、それぞれ独り立ちできる人たち」と否定しなかった。 石原プロは、17年8月に北海道・小樽の石原裕次郎記念館を閉館。今月3日に映画やテレビ、音楽などに関する著作権などを扱っていた石原インターナショナルの清算結了登記の手続きを終了し、昨年までに石原ミュージックや映画製作を手掛けたI.P.Fの清算を済ませ、音楽関係の出版販売などを行う石原音楽出版社も今月3日に遺品の維持管理などを扱う業務に変更。事業を縮小し、一本化を進めている。 浅野社長は「現在も映像や映画など貸し出しているため会社の解散はできない。体系や名前を変えて会社を継続します」と一部で報じられた来年1月の解散を否定。一方、「将来的には、石原プロの看板を裕次郎さんの仏前に返さないといけない」と話した。
2020/07/14(火) 18:46:45.36 ID:40Kk8k0L9 「石原プロ」解散へ 裕次郎の“弔い上げ”機に…関連会社も精算済み 故・石原裕次郎が設立し、個性豊かな「石原軍団」のエピソードに彩られた「石原プロモーション」が、その歴史に幕を下ろそうとしている。 いくつかの関連会社はすでに清算され、来年1月頃の「解散」に向けての準備が進められているという。
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石原プロは1963年に設立され、裕次郎自身が社長に就任。渡哲也や舘ひろしが合流し、所属タレントたちは「石原軍団」と呼ばれるようになったのは知られた通り。裕次郎亡き後も事務所は存続となったが、これには異論もあったようだ。石原プロ関係者はこう振り返る。
「もともと裕次郎さんは『自分が死んだら石原プロを閉じろ』との遺言を残していたと言われており、渡さんをはじめとする『石原軍団』のメンバーにも、“なるべく早く会社を畳むべき”だとの考えを持つ人が多かった」
とはいえ、石原プロを存続させることが“裕ママ”ことまき子未亡人の生活を支えることになるとの考えから、会社は残されてきたのだ。
それでも、これまで女性誌などで幾度も「解散説」が報じられてきたが、今回、それが最終決定されたという。
「会社を完全に閉じるのは来年1月頃の予定。その際、会見を開くことは今のところ考えていません」(同)
そのきっかけの一つになったと目されるのが、昨年の裕次郎の「弔い上げ」だ。
「昨年、横浜の総持寺で裕次郎さんの三十三回忌の法要が営まれた際に、まき子さんから『今年をもって弔い上げとします』との話がありました」(同)
「週刊新潮」2020年7月23日号
実際に石原プロの関連会社の登記簿謄本を確認しても、解散への準備が着々と進んでいることがうかがえる。例えば、「石原音楽出版社」の登記簿の目的欄には、この7月3日付で「石原裕次郎の遺品の維持管理、展示及び賃貸」という一文が加わり、また「石原インターナショナル」の登記簿を見ると、同じく7月3日付で「清算結了」したことが分かる