鉄道萬作

Movie/塩狩峠

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9600形蒸気機関車

 
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国鉄9600形蒸気機関車(こくてつ9600がたじょうききかんしゃ)は、日本国有鉄道(国鉄)の前身である鉄道院が1913年(大正2年)から製造した、日本で初めての本格的な国産貨物列車牽引用のテンダー式蒸気機関車である。「キューロク」、「クンロク」あるいは「山親爺」と愛称され、四国を除く日本全国で長く使用された。国鉄において最後まで稼動した蒸気機関車ともなった、長命な形式である。

9600形という形式は、1912年度に12両が試作された2-8-0 (1D) 型過熱式テンダー機関車が最初に使用 (9600 - 9611) したが、本形式に形式を明け渡すため、落成後わずか3か月で9580形 (9580 - 9591) に改められた。したがって、本形式は9600形の2代目である。

台湾総督府鉄道800形 800形は、台湾総督府鉄道に納入された鉄道省9600形の同形車で、1923年(大正12年)から1939年(昭和14年)にかけて、39両 (800 - 838) が製造された。こちらは、鉄道省籍に編入されたことはない。1937年にD98形に改められたが、番号は変更されなかった。太平洋戦争後にこれらを引き継いだ台湾鉄路管理局では、DT580形 (DT581 - 618) と改められた。戦後には、廃車の部品を組み合わせて1両 (DT619) が再製されている。

台湾の「9600形」について特筆すべきは、本形式に先立つ1920年(大正9年)にアメリカン・ロコモティブ(アルコ)社スケネクタディ工場で、同系機(600形)が製造されていることで、14両 (600 - 613) が輸入されている。原型の板台枠を棒台枠に変更し、火格子面積も増大されており、乗り心地や投炭の楽さは、本形式に優っていたという。細部の設計もアメリカナイズされていたが、原設計を日本で行なった機関車をアメリカで製造した唯一の例である。

1923年:台湾総督府鉄道800 - 802 → 台湾鉄路管理局DT581 - DT583(3両・川崎造船所・製造番号868 - 870) 1924年:台湾総督府鉄道803 - 806 → 台湾鉄路管理局DT584 - DT587(4両・汽車製造・製造番号741 - 744) 1925年:台湾総督府鉄道807 - 810 → 台湾鉄路管理局DT588 - DT591(4両・川崎造船所・製造番号1068 - 1071) 1926年:台湾総督府鉄道811 - 815 → 台湾鉄路管理局DT592 - DT596(5両・川崎造船所・製造番号1150 - 1154) 1927年:台湾総督府鉄道816 - 820 → 台湾鉄路管理局DT597 - DT601(5両・日立製作所・製造番号257 - 261) 1928年:台湾総督府鉄道821 - 824 → 台湾鉄路管理局DT602 - DT605(4両・川崎車輛・製造番号1273 - 1276) 1929年:台湾総督府鉄道825 - 829 → 台湾鉄路管理局DT606 - DT610(5両・汽車製造・製造番号1098 - 1102) 1930年:台湾総督府鉄道830 - 833 → 台湾鉄路管理局DT611 - DT613(4両・日本車輌製造・製造番号241 - 244、831は戦災廃車) 1937年:台湾総督府鉄道834 - 835 → 台湾鉄路管理局DT614 - DT615(2両・日立製作所・製造番号808 - 809) 1939年:台湾総督府鉄道836 - 838 → 台湾鉄路管理局DT616 - DT618(3両・三菱造船所) 台湾鉄路管理局DT619(廃車した車両を部品の組み合わせにより再製したもの)

1480形蒸気機関車

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元は、南和鉄道が1895年(明治28年)と1901年(明治34年)にそれぞれ3両(製造番号3263 - 3265)、2両(製造番号4070,4071)の計5両をイギリスのダブス社から輸入したもので、車軸配置0-6-0(C)、2気筒単式の飽和式小型タンク機関車であった。これらは、1895年製が 1 - 3、1901年製が4,5[1]と付番された。

1904年(明治37年)に南和鉄道が関西鉄道に事業譲渡されたため、同社の88形「千早」(88 - 92)となった。1907年(明治40年)の関西鉄道の国有化によって国有鉄道籍となり、1909年(明治42年)に制定された鉄道院の車両形式称号規程により、1480形(1480 - 1484)に改められた。

国有化後もおもに和歌山線で使用されたが、1919年(大正8年)7月に全機揃って除籍され、八幡製鉄所に払下げられた。八幡製鉄所では90 - 94となったが、使い勝手の良さもあって1921年(大正11年)に同形機を日本車輌製造に2両発注・増備している[2]。その後、303 - 307に改番され、1952年(昭和27年)に303 - 305,301,302となったが、この頃に代替新造され、まったく別の機関車となった。名目上、301は1958年(昭和33年)、302は1960年(昭和35年)、303 - 305は1963年(昭和38年)まで使用された。

 

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Last-modified: 2021-02-06 (土) 18:17:00