細川 ガラシャ(伽羅奢、迦羅奢) / 明智 玉(子)(明智 珠(子))(ほそかわ ガラシャ / あけち たま(たまこ)
永禄6年(1563年)- 慶長5年7月17日(1600年8月25日)(36-37歳)
戦国時代から安土桃山時代にかけての女性。明智光秀の三女で細川忠興の正室
諱「たま」(玉/珠)または玉子(たまこ)
法名:秀林院(しゅうりんいん)
キリスト教徒(キリシタン)
子:於長(おちょう:前野景定正室)、忠隆、興秋、忠利、多羅(たら:稲葉一通室)など
辞世「散りぬべき 時知りてこそ 世の中の 花も花なれ 人も人なれ 」
おたあジュリア
「高貴で名誉を重んじる婦人たちは、その優れた容貌を隠すことによって日本兵から逃れ得ようと考え、ある者は深鍋や浅鍋の煤(すす)を顔に塗り、他の者は賤しく貧しい衣服をまとって敵を欺こうとした―(中略)-身分あり容貌が優れた男女の子供たちは、母親から教えられるままに、あるいは足をひきずって不具者を装い、あるいはまるで気が狂ったように口をひきつらせて見せたが、たちまち日本人から欺瞞を見破られ、日本人に使用されるほかはなかった」 (ルイス・フロイス著『完訳フロイス日本史5』より一部抜粋)
家老の小笠原秀清(少斎)がガラシャを介錯し、ガラシャの遺体が残らぬように屋敷に爆薬を仕掛け火を点けて自刃