TV/俺たちの旅/No.05 女もなぜか淋しいのです

聖徳太子

古代権力者を各人の都合で複合的に捏造した架空の人

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スペック

モデル像

諡号: 聖徳太子

全名: 厩戸

称号: 上宮王、豊聡耳、 上宮之厩戸豊聡耳命、法主王、豊聡耳聖 徳豊聡耳法大王、上宮太子聖徳皇、 厩戸豊聰耳聖徳法王、 上宮厩戸、厩戸皇太子

出生: 574年2月7日(敏達天皇3年1月1日)

死去: 622年4月8日(推古天皇30年2月22日)

埋葬: 磯長墓(叡福寺北古墳)

配偶者:

子女: 山背大兄王、財王、日置王、白髪部王 長谷王、三枝王、伊止志古王、麻呂古王 片岡女王、手島女王、舂米女王、 久波太女王、波止利女王、馬屋古女王

父: 用明天皇

母: 穴穂部間人皇女

参考書

上宮聖徳法王帝説

『上宮聖徳法王帝説』(じょうぐうしょうとくほうおうていせつ) 厩戸皇子(聖徳太子)の伝記.現存する聖徳太子伝記としては最古.作者、成立年代ともに不詳.全一巻. 一部に日本書紀とは異なる記録

妻との死亡時が興味深い

第一部

厩戸豊聰耳聖徳法王の系図を文章で表現している。特に妻や女子の名も記しているところが後の父子のみの系図と異なる。

第二部

厩戸豊聰耳聖徳法王の事績。仏教的事績のほかに冠位十二階について詳述。

第三部

法隆寺の御物の銘文を収めている。特に天寿国曼荼羅繻帳の銘文は現物が断片的にしか残存していないのでその記録は貴重である。

第四部

断片的な歴史の記録が箇条書き的に記録されており、十七条憲法や蘇我入鹿事件の年代あるいは、「志癸島天皇御世 戊午年十月十二日」に百済の聖王からの仏教公伝、山代大兄(山背大兄王)事件等が記されている。 第五部

欽明天皇(志帰島天皇治天下卅一年(辛卯年四月崩陵桧前坂合岡也)」)から推古天皇の治世年数とそれぞれの崩御年そして陵の所在地を書いている。ここでは、欽明天皇の治世年数(辛卯年より卅一年(31年)前)から逆算した即位年が『日本書紀』(宣化天皇4年に即位)と相違し、学者の論争の的となっている。 ※逆算による欽明天皇の即位年は531年で『日本書紀』では継体天皇25年にあたる。安閑・宣化両天皇のあとの宣化天皇4年(539年)に即位したとする『日本書紀』とは整合しない。南北朝のように安閑・宣化朝と欽明朝が並立し内乱状態にあったという説や、単に暦法上の問題とする説などがある。

聖徳太子伝暦

聖徳太子伝暦(しょうとくたいしでんりゃく)

平安前期(917年あたり)に歌人・藤原兼輔によって編纂されたと云われる聖徳太子の伝記

鎌倉時代 本来は一巻として成立したと思われますが、多くの写本では上下二巻として、興福寺本は上下本末の4帖から構成.延喜17年(917)に藤原兼輔が撰したもので、太子の一生を年代記風に記述. 奥書から、文永4年(1267)に定林寺(太子建立の寺)で写した慶重の書写本を、徳治2年(1307)に良厳が菩提寺(橘寺)往生院(聖徳太子誕生所と伝える)で書写した.ともに太子因縁の地で書写されたもの.

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日本書紀

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2020/10/15 yomi 聖徳太子の一族、焼き打ちされた痕跡…法隆寺の資料倉庫で発見

約80年ぶりに見つかった斑鳩宮の壁土の破片(12日、奈良県斑鳩町の斑鳩文化財センターで)=前田尚紀撮影  奈良県斑鳩町で、聖徳太子が造営した 斑鳩宮 いかるがのみやの壁土の破片が約80年ぶりに見つかった。戦前に発掘されたが、その後所在不明になっていた。破片には、643年に焼き打ちされた際についたとみられる痕跡があり、研究者は「古代史の大事件を裏付ける貴重な資料」としている。  斑鳩宮は601年から聖徳太子が造営し、暮らした宮殿。聖徳太子の死後の643年、子の 山背大兄王 やましろのおおえのおうと皇位継承を巡って対立した蘇我入鹿が焼き払い、山背大兄王ら一族は自害したとされる。  町教委によると、法隆寺の「昭和の大改修」に伴い、1939年に東院 伽藍 がらんにある伝法堂で発掘調査が行われ、斑鳩宮とみられる柱跡が出土。国が48年にまとめた発掘報告書には、「炭や焼けた壁土片多量を発見」と書かれていたが、戦中の混乱もあって壁土の所在がわからなくなっていた。  来年が聖徳太子没後1400年目にあたることから、町教委が報告書に書かれた壁土の所在を捜したところ、今年7月、法隆寺の資料倉庫で「伝法堂出土壁土」と書かれた木箱(縦67センチ、横30センチ、深さ15センチ)が見つかった。中には壁土約30片が入っており、最も大きなものは縦30センチ、横16センチ、厚さ10センチ。表面が焼かれて赤褐色などに変色していることから、町教委は焼失した斑鳩宮の壁土の可能性が高いと判断した。  壁土は、17日から斑鳩文化財センターで開く特別展「聖徳太子の足跡―斑鳩宮と斑鳩寺」で初公開される。  清水昭博・帝塚山大教授(歴史考古学)の話「日本の宮殿建築の部材として最古のものと考えられ、実物が確認された意義は大きい。今後の調査で壁や建物の構造などの解明が期待される」


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Last-modified: 2020-10-16 (金) 20:28:00