Book/ペスト

試し読み 第2回

 電報はリウーに母が明日着くことを知らせたものであった。病人の留守中、息子の家のめんどうを見に来るのであった。医師が家へはいると、看護婦はもう来ていた。見ると、妻はちゃんと起きて、テイラード・スーツのいでたちに、化粧のあとまで見せていた。彼はそれにほほえみかけて―― 「ああ、いいな」といった。「とてもいいよ」  それから間もなく、停車場で、彼女を寝台車に乗り込ませた。彼女は車室を見まわした。 「たいした料金なんでしょう、あたしたちの身分じゃ。そうじゃない?」 「必要なことだもの」と、リウーはいった。 「いったいどういうんですの、今度の鼠さわぎは」 「わからない。まったく奇妙だ。だが、そのうち済んじまうだろう」  それから、彼はひどく口早に、彼女に向って、どうかゆるしてくれるように、ちゃんと気をつけてやるべきだったのに、ずいぶんほったらかしにしていてと、いった。彼女は、なんにもいわないでというように、首を振っていた。しかし、彼は付け加えた―― 「何もかもよくなるよ、今度帰って来たら。お互いにまたもう一度やり直すさ」 「ほんとよ」と、目を輝かせながら彼女はいった。「やり直しましょうね」  それから間もなく、彼女は彼に背を向け、窓ガラスの外をながめていた。ホームの上では、人々が急ぎ合い、ぶつかり合っていた。機関車のシュッシュッという音が彼らのところまで聞えてきた。彼は妻の呼び名を呼んだが、振り向いたのを見ると、その顔は涙におおわれていた。 「だめだなあ」と、やさしく彼はいった。  涙の陰から、やや引きつったように、またほほえみが浮んできた。彼女は大きく息をついた。 「行っておいで。万事うまく行くよ」  彼は彼女を抱きしめ、そして今はもうホームに立って、窓ガラスの向う側に、ただ彼女のほほえみを見るばかりであった。 「くれぐれも体に気をつけてね」と、彼はいった。  しかし、彼女には、それは聞えなかった。  出口に近く、駅のホームで、リウーは予審判事のオトン氏が小さい男の子の手を引いているのにぶつかった。医師は、彼に旅行に出かけるのかと尋ねた。長身黒髪のオトン氏は、半ばはかつて社交界の人士と呼ばれたものに似、半ばは葬儀人夫に似た 風 ふう 采 さいであったが、愛想のいい、しかしぶっきらぼうな声で、こう答えた。 「家内を待ってるんです。私の実家にご機嫌うかがいに行ってましたので」  機関車の汽笛が鳴った。 「鼠が……」と、判事がいった。  リウーは汽車の方角へちょっと身を動かしたが、また出口のほうへ向き直った。 「ええ」と、彼はいった。「なに、なんでもありませんよ」  この瞬間について記憶に残ったことといえば、死んだ鼠のいっぱいはいった箱を小脇にかかえた一人の駅員が通ったということだけであった。  同じ日の午後、診察時間の初めに、リウーは一人の若い男の訪問を受けたが、それは新聞記者で、すでに朝のうちにも訪ねて来たということであった。名はレイモン・ランベールといった。胴が短く、肩は厚く、はっきりした顔つきに、明るく聡明な眼をしたランベールは、スポーツ仕立ての服を着、生活には不自由のない人間らしく見えた。彼は単刀直入に切り出した。パリのある大新聞のために、アラビア人の生活条件について調査をしているところで、彼らの衛生状態についてききたいというのである。リウーはそれに対して、そのほうの状態はよくはない、といった。しかし、それ以上話を進める前に、いったい新聞記者というものはほんとうのことをいえるのか、それを知りたいといった。 「もちろんです」と相手はいった。 「僕のいう意味は、全面的にやっつけるというところまで行けるかということです」 「全面的とは行きません。それはどうしてもそうなんです。しかし、そのやっつけるというのは別に根拠はないことなんでしょうね」  穏やかな調子でリウーはそれに答えて、いかにもそんなやっつけるなどということは根拠のないことであろうが、しかしその質問をしたのは、ただランベールの証言が留保のないものでありうるか否かを知ろうとしたのだ、といった。 「僕は留保のない証言しか認めないんです。ですから、あなたの場合にも、僕の報告を提供することはしません」 「まさにサン・ジュスト(訳注 フランス革命当時の熱狂的な正義論者)の言葉ですね」と、ほほえみながら新聞記者はいった。  リウーは、それに対して別に声の調子を高めることもなく、その点はどうだか知らないが、これは自分の暮している世界にうんざりしながら、しかもなお人間同士に愛着をもち、そして自分に関する限り不正と譲歩をこばむ決意をした人間の言葉である、といった。ランベールはじっと首をすえて、医師の顔を見つめていた。 「あなたのお気持ちはわかるような気がします」と、立ち上りながら、最後に彼はいった。  医師は戸口へ送って行った。 「あなたがそんなふうに受けとってくださって、僕もうれしいんです」  ランベールは、じれったそうにした。 「ええ、わかってます」と、彼はいった。「おじゃましてすみませんでした」  医師は彼の手を握り、そして、目下市内で発見されている大量の死んだ鼠について興味ある報道記事をものすることができるだろう、といった。 「ほう!」と、ランベールは声をあげた。「そいつはおもしろいですね」  十七時に、医師がまた往診に出かけようとすると、階段の途中で、がっしりと彫りの深い顔に濃い眉毛を一文字に引いた、姿全体に重々しさのある、まだ若い男とすれ違った。その男には、時おり、このアパートの最上階に住んでいるイスパニア人の舞踊師たちのところで出会ったことがあった。ジャン・タルーは、しきりにたばこをふかしながら、足もとの階段の上で死にかけている一匹の鼠の最後の痙攣をながめていた。彼は医師のほうへ、その灰色の眼の、落ち着いた、やや見すえるような視線をあげ、挨拶の言葉をいい、そしてこの鼠どもの出現は興味あることがらだと付け加えた。 「ええ」と、リウーはいった。「しかし、こうなると、もう小うるさくなってきますよ」 「ある意味ではね。ある意味でだけですよ。つまり、こんなことは見たことがないっていうだけのことです。しかし、僕はこれを興味あること、まったく、実際に興味あることだと思ってるんです」  タルーは髪の毛をうしろにかきあげ、今はもう動かなくなった鼠を再びながめ、それからリウーにほほえみかけた―― 「しかし、要するにですな、こいつは何よりも門番の問題というわけです」  ちょうどその門番を医師はアパートの前で見かけたが、入口のそばの壁にもたれて、いつもは血色のいいあから顔に、ちょっとぐったりしたような表情を浮べていた。 「ああ、知ってまさ」と、ミッシェル老人は、新たな発見を知らせたリウーにいった。「なにしろ二匹だの三匹だのって見つかるんだからね、今じゃ。だが、こいつはほかのアパートでもおんなじなんでさ」  彼の様子はいかにも打ちのめされたように、気づかわしげであった。機械的な動作でしきりに首をこすっていた。リウーは、体具合はどうかと尋ねた。門番は、体具合が悪いとは、もちろんいえなかった。ただ、どうも調子が十分でない。彼の意見では、つまり精神的なものが作用しているのだ。あの鼠どものためにショックを受けたわけで、やつらが姿を消してしまえば万事ずっと順調になるだろう。


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Last-modified: 2020-04-14 (火) 00:00:00