Book/ペスト

試し読み 第3回

 しかし翌四月十八日の朝、駅から母を迎えて来た医師は、ミッシェル氏がまた一層しなびた顔つきをしているのを見た。地下室から屋根裏まで、十匹もの鼠が階段に散乱していたのである。近所の家々の芥箱は鼠でいっぱいだった。医師の母親はその話を聞いても別に驚かなかった。 「いろんなことがあるものですよ」  黒いやさしい目をした、銀髪の、小柄な婦人であった。 「あたしはうれしいの、ベルナール、またお前の顔が見られて」と彼女はいった。「鼠だってなんだって、それをどうすることもできやしないさ」  彼もその言葉にうなずいた。そういえば、まったく、彼女の手にかかると、すべてがいつでも造作のないことに見えるのであった。  リウーは、それでも、そこの課長を知っている市の 鼠 そ 害 がい対策課へ電話をかけた。課長は、大量に巣外へ出て来て死ぬ鼠どものうわさを聞いているだろうか? 課長のメルシエは、そのうわさを聞いていたし、河岸から遠くないところにある彼の役所でも、それが五十匹ぐらい発見されていた。彼は、しかしながら、それが果してまともに考慮すべき事件かどうか迷っていた。リウーもその点はなんともいえなかったが、しかし鼠害対策課が乗り出すべきだと考えていた。 「うん、命令さえあればね」と、メルシエはいった。「君がもしそうするだけのことがあると思うんなら、ひとつ、命令を出してもらうようにやってみてもいいんだが」 「そりゃ、やればやるだけのことはあるさ、いつだって」と、リウーはいった。  家政婦が今しがた伝えたところによると、彼女の夫の働いている大工場では、死んだ鼠が何百匹となく拾い集められたという。  いずれにしても、ほぼこの時期において、わが市民は不安になり始めたのであった。というのが、この十八日の日から、工場や倉庫は事実幾百という鼠の死骸を吐き出したのである。ある場合など、断末魔の長すぎるやつは手をくだして殺すことを余儀なくされた。しかも、外郭地区から市の中心に至るまで、およそ医師リウーの通りかかるところ、市民の集まるところには、至るところ山をなして芥箱の中に、もしくは長い列をなして溝の中に、鼠が待ち受けていた。夕刊紙はさっそくこの日から事件をとりあげて、市庁は果して動き出すつもりかどうか、また、この不快な襲来から治下の市民を守るために果していかなる緊急措置を検討したかを問題にした。市庁はまだ何をするつもりもなく、なんら検討もしていなかったが、そのかわり、まず会議に集まって評定することから始めた。毎朝、明けがたに、死んだ鼠を拾集するよう鼠害対策課に命令が発せられた。拾集が終ると、課の車二台がその鼠を 塵 じん 埃 あい焼却場へ運んで焼き捨てることになっていた。  しかし、続く数日において事態はさらに悪化した。拾い集められる 齧 げっ 歯 し 獣 じゅうの数は増加する一方で収穫は朝ごとにますますおびただしかった。四日目からは、鼠は外へ出て群れをなして死にはじめた。隠れ家から、地下室から、穴倉から、下水から、よろめく長い列をなして上って来て、明るい光線のなかでひょろつき、きりきり舞いをし、そして人間どものそばで死んで行くのであった。夜は、廊下や路地に、その断末魔の小さななき声が、はっきり聞えた。朝になると、町はずれのほうでは、溝いっぱいに並んで、とがった鼻面に小さな血の泡をくっつけ、あるものはふくれ上って腐りかけ、あるものは、まだひげをぴんとさせたまま硬直しているのが見出された。市中でさえも、階段口や中庭に、小さな山をなしているのに出くわした。また、官公庁の広間や、学校の雨天体操場や、カフェのテラスに、時々はぽつんと死んでいることもあった。市民の度胆を抜くように、それは町の最も雑踏する場所にも発見された。閲兵広場や、並木通りや、臨海遊歩場も、おりおり汚された。明けがた、死んだ鼠を一掃した町は、その日のうちに、次第にまたますます多数の鼠を見出すようになるのであった。歩道の上で、夜の散歩者がまだ新しい死骸の弾力あるかたまりを足下に感じたりすることも、一再ならず起った。さながら、われわれの家の建っている大地そのものが、うちにたまっていた 膿 う 汁 みを出しきって、それまで内部をむしばんでいた 癤 ねぶ 瘡 とや血膿を地面に流れ出させたとでもいうようであった。これまで実に平穏であり、それが数日にして一変させられたこの小都市の、あたかも壮健な男の濃厚な血が突如として変調を起したような、その仰天ぶりを考えてもみていただきたい。  事態はついに報知(情報、資料提供、ありとあらゆる問題に関するいっさいの情報)通信社が、その無料提供情報のラジオ放送において、二十五日の一日だけで六千二百三十一匹の鼠が拾集され焼き捨てられたと報ずるに至った。この数字は、市が眼前に見ている毎日の光景に一個の明瞭な意味を与えるものであり、これがさらに混乱を増大させた。それまでのところ、人々は少々気持ちの悪い出来事としてこぼしていただけであった。今や、人々は、まだその全容を明確にすることも、原因をつきとめることもできぬこの現象が、何かしら由々しいものをはらんでいることに気づいたのである。ひとり、例のイスパニア人の喘息もちの爺さんだけが、相変らずもみ手をしながら、「出て来るわ、出て来るわ」と、年寄りらしい喜びをもって繰り返していた。


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Last-modified: 2020-04-15 (水) 00:00:00