Book/ペスト

試し読み 第5回

夕刊の呼び売りは鼠の襲来が停止したと報じていた。しかし、リウーが行ってみると、病人は半ば寝台の外に乗り出して、片手を腹に、もう一方の手を首のまわりに当て、ひどくしゃくり上げながら、薔薇色がかった液汁を汚物溜めのなかに吐いていた。しばらく苦しみ続けたあげく、あえぎあえぎ、門番はまた床についた。熱は三十九度五分で、頸部のリンパ腺と四肢が 腫 しゅ 脹 ちょうし、脇腹に黒っぽい斑点が二つ広がりかけていた。彼は今では内部の痛みを訴えていた。 「焼けつくようだ」と、彼はいっていた。「こんちくしょう、ひどく痛みゃがって」  黒ずんだ口のなかで言葉はくぐもりがちに、目玉の飛び出た目を医師のほうに向けていたが、その目には頭痛のために涙が浮んでいた。女房は、じっと黙りこんでいるリウーを不安に堪えぬ様子でながめていた。 「先生」と、女房はいった。「いったい、なんでしょう、これは」 「さあ、いろんなふうに考えられるんでね。しかし、まだなんにも確かな兆候はない。晩まで、絶食と浄血剤だ。うんと飲みものをとるようにしなさい」  ちょうど、門番はのどがかわいてたまらないところだった。  家に帰ると、リウーは同業のリシャールという、市内で最も有力な医者の一人に電話をかけた。 「いや」と、リシャールはいった。「べつに、とくべつ変ったことは目につかなかったが」 「局部的な炎症を伴った熱っていうようなものは、なかったですか」 「そうだ、あったよ、そういえば。二件ばかり、リンパ腺につよい炎症が来ててね」 「異常にですか」 「さあね」と、リシャールはいった。「普通っていうと、なにしろ……」  いずれにしても、その晩、門番はうわごとをいいはじめ、四十度の熱を出しながら、鼠のことを口走った。リウーは 膿 のう 瘍 よう固定を試みた。テレビン油のしみる痛みに、門番はうなった――「ああ、畜生!」  リンパ腺はさらに大きくなり、さわってみると堅く木のようになっていた。門番の女房はおろおろしていた。 「ずっとついててあげなさい」と、医師は女房にいった。「それで、呼んでください、もし何かあったら」  翌四月三十日は、もうなま温かい微風が、青くしっとりした空に吹いていた。風は花の香を運んで、郊外のずっと遠くのほうからもそれが漂って来た。街々の朝の物音はふだんより一層生きいきと楽しげに聞えた。一週間を暮してきた暗黙の懸念から解放されて、この小都市の町じゅう、この日はおよそ一陽来復の一日であった。リウー自身も、妻から手紙があったのでまず安心して、軽快な気持ちで門番のところへ降りて行った。そして、事実、朝になって熱は三十八度に下っていた。衰弱して、病人は床のなかでほほえんでいた…… 「だいぶいいようだけど、どうでしょう、先生」と、女房はいった。 「まあ、もう少し様子をみないと」  ところが、正午になると、熱は一挙に四十度に上り、病人は間断なく 譫 うわ 言 ごとをいい、吐き気がまた始まった。頸部のリンパ腺は触れると痛そうで、門番は頭をできるだけ体から遠くに離していようとでもしているようだった。女房は寝台の足もとに腰掛けて、両手でふとんの上から、そっと病人の足を押えていた。女房はリウーの顔を見守っていた。 「どうもこいつは」と、リウーはいった。「こいつは隔離して、まったく特別な手当てをやってみる必要があるな。病院に電話をかけるから、救急車で連れて行こう」  二時間の後、救急車のなかで、医師と女房とは病人の顔をのぞき込んでいた。いちめん菌状のぶつぶつでおおわれた口から、きれぎれの言葉がもれていた――「鼠のやつ!」と、病人はいっていた。土気色になり、唇は 蝋 ろうのように、まぶたは鉛色に、息はきれぎれに短く、リンパ腺に肉を引き裂かれ、寝床の奥にちぢこまって、まるでその寝床を体の上へ折りたたもうとするかのように、もしくはまた、地の底から来る何ものかに一瞬の休みもなく呼びたてられているかのように、門番は目に見えぬ重圧のもとにあえいでいた。女房は泣いていた。 「もう望みはないんでしょうか、先生」 「死んでしまった」と、リウーはいった。

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その後、『ペスト』では同様の熱病者が続出し、次々と罪なき市民が命を奪われていく。感染拡大を防ぐために街は外部と遮断され、封鎖状態に。行政は対応に後れを取り続け、ペストの脅威は拡大の一途をたどっていくのであった……。


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Last-modified: 2020-04-18 (土) 00:00:00