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野坂昭如

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野坂 昭如 のさか あきゆき

1930年(昭和5年)10月10日 - 2015年(平成27年)12月9日(85歳没) 心不全

神奈川県鎌倉市

早稲田大学第一文学部仏文科抹籍

作家

日本レコード大賞作詞賞(1963年)

直木三十五賞(1967年)

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思考は好きだが、あの長文文章は苦手

神田共立講堂はよくでかけたもんたよしのり

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◆「昭ちゃんの妹よ、かわいがってあげてね」 かつてぼくには、二人の妹がいた。 ぼくは生まれるとすぐに、神戸へ養子にやられ、小学校五年になった時、養家先では、もう一人、女の子をもらった。

昭和十六年四月のことで、この妹は名前を紀久子といい、よく肥っていて、体格優良児コンクールに出せばいいと、隣組の人などが無責任にそそのかしたのを覚えている。 角力(すもう)の稽古でおそくなり、夕方、家へかえると、六畳の茶の間にちいさな布団が敷かれ、赤ん坊が寝ていた。養母に「昭ちゃんの妹よ、かわいがってあげてね」といわれた時、その場はフーンと気のない返事をし、養母が台所へ去ると、とたんに赤ん坊の枕許に膝をつき、しみじみと寝顔にながめ入り、こみ上げるようなうれしさに襲われ、それを気づかれるのがいやで、表へとび出し、ニタニタと笑いつづけていた。 養父母もおどろくほど、ぼくは紀久子をかわいがった。この年ごろの男の子にしては、少々へんなほどよく面倒をみたと思う。煉乳をといてのませ、おむつをかえてやり、子守唄をうたって寝かしつけた。 麻央のためにぼくは子守唄をつくったことがある。これは必ずしも麻央だけにぼくが捧げたものではなくて、ぼくの心には、やはり幼くして死んでしまった二人の妹への、鎮魂歌といったような気持もあるのだ。麻央がむずかると、抱きあげて、無器用にゆすりながら、ぼくはぼくの子守唄をうたう。 泣きたきゃ お泣きよ 麻央 悲しい涙 怖い涙 涙の一つ一つを  パパが拾ってあげるから  星のみえない空もある  花の咲かない庭もある  泣きたきゃ お泣きよ 麻央  いつでも麻央は 麻央なのさ 泣きたきゃ お泣きよ 麻央 さびしい夢や つらい夢 その夢の一つ一つを パパが食べてあげるから  一人ぽっちの道を行き  冷めたい森に まよいこみ  泣きたきゃ お泣きよ 麻央  いつでも麻央は 麻央なのさ 泣きたきゃ お泣きよ 麻央 いつでもパパが みてるから

涙の一つ一つで  パパより大きく なるんだよ

◆「紀久子、天国へいけよ、天国へいくんだぞ」 昭和十六年十一月十四日の午後十一時、二階に一人寝ていたぼくは、階下の異常な気配に目覚め、梯子段のところまで来ると、「紀久ちゃん、紀久ちゃん」激しく呼ぶ養母の声がひびき、そのあまりに切迫した気配に、思わず立ちすくむと、「タオル、タオルでくるんで」養父がいい、すぐに玄関の戸の開く音がした。 ぼくは膝をガクガクふるわせながら、梯子のいちばん上に腰を下していた。 二十分ばかりして、ふたたび玄関の戸がひびき、祖母の駈け寄る足音、「どうでした」はや涙声でたずねるのに養父はいかにも力なく一言「駄目」とたんに女同士の号泣が起こり、養父はしばらくだまっていたが、怒鳴るように「紀久子、天国へいけよ、天国へいくんだぞ」といった。 二月三日が誕生日だから、十ヵ月余りの生命で、発育はきわめてよく、すでに歩いていた。死の前、風邪をひいて、膿のような色の鼻汁を出し、苦しそうなのを見かねて、祖母は自分の口でこれを吸いとってやり、また緑色の便が二、三日続いているときいたが、ぼくの顔をみれば、ふだんのように笑っていた。 まさか死ぬなどと、つゆ思えなかったから、ぼくはただ呆然として、「昭如が悲しむだろう。今は寝かしておきなさい」という父の言葉の中の、自分の名前にひょいとわれにかえり、たしかに今、下へ降りていっても、とても涙など出そうになく、どういう表情をし、なんといっていいかわからないから、とにかく布団へもぐり、うとうとし、次に眼を覚ますと、すでに明けていて、まず線香のつよい香りが鼻をうった。 「紀久子は昨夜十一時四十分に死んだ。君は学校へいって、先生に休ませていただくようおねがいしてきなさい」ごく事務的に父はいい、紀久子は八畳の部屋に、北枕に寝かされ、顔にかけられたガーゼの白と、名前にちなみ、そして季節の花である菊が、すでに一面にかざられ、その色の対照があざやかだった。紀久子の顔色は、まだ生きていた時とかわらぬようにみえた。

「風呂へ入って、なんともちいさな麻央の骨格をみる時、これが生き続けていること自体、奇蹟のように思えて、おねがいだから死なないでくれと、祈りたくなる」 このちいさな死について、前にぼくは贖罪の心といったが、当然、ぼくに責任はない。 紀久子の死因は、急性腸炎とされ、もともと、虚弱な体質だったのであろう。あまり突然の死に、実感がわかなかった。悲しくなったのは、遺品のすべて、父の配慮で処分され、ただ厖大に買い占めた煉乳や、粉ミルクが防空壕にしまいこまれていて、食べ盛りのぼくは養母の眼を盗み、入りこみ、釘で罐に穴をあけ、ドロリとしたミルクを吸いこむ時、湿気の多い、昏い穴の中にひっそり坐っている時、わけもなく涙があふれ、無性に紀久子があわれに思えてくる。いったい何のために生まれてきたのだと、腹立たしくさえなった。

赤ん坊がすぐに死んでしまうという脅えは、いまだに消えない。麻央が少し風邪でもひこうものなら、ぼくは実にしばしば、寝ている麻央の鼻先に掌を近づけ、かすかな息づかいをたしかめないではいられないのだ。ウンチをみて、色と形が通常ならば、それだけで麻央をやんやとほめ讃えたくなる。風呂へ入って、なんともちいさな麻央の骨格をみる時、これが生き続けていること自体、奇蹟のように思えて、おねがいだから死なないでくれと、祈りたくなる。

◆子ども2人で焼跡にほうり出され しかし紀久子は、まだしあわせであった。紀久子が死んでしばらくすると太平洋戦争がはじまり、そして今から思えば敗色あきらかとなっていた、だが当時は、いつか連合艦隊がアメリカをやっつけると信じこめた昭和十九年の三月に、二人目の妹、恵子が、これまた突然やって来た。ぼくは中学二年で、期末試験を終え、防空気球の空に浮かぶ春の午後、家へ帰ると赤ん坊の泣き声がし、生後二週間目の恵子が、祖母に抱かれていた。 紀久子の記憶は、よく肥り、絵にかいたような明るい赤ん坊として残っているが、恵子は、痩せていて、誕生過ぎても一人歩きができず、だがすでに、いかにも整った眼鼻立ちであって、「これはきっと楚々とした美人になるな」と、年相応に女に興味をいだきはじめたぼくは感じ、静かな赤ん坊とでもいいたい印象だった。 からだはちいさかったが、恵子は病気をせず、次第に激しくなった空襲に、冷たい防空壕で夜を過ごしても、脅えることなく、カタカタと鳴る木の玩具がお気に入りで、それさえあればきげんがいい。 三月十七日、四月二十二日の空襲はまぬかれたが、六月五日のそれは、ぼくの住んでいた神戸市灘区中郷町三丁目あたりに、まず手はじめの焼夷弾攻撃を行ない、たちまちすべての空間に、爆弾の落下音がみちみち、まるで手でさわれるような感じで、音がとびはね、そしてあたりきらわず焔を吹き出す修羅場にわが家は変じ、あれは絶対に攻撃というものではない、殺戮なのだ。養父は、二百五十キロの焼夷爆弾の直撃を受けて、五体四散し、養母、祖母もなくなり、疎開していた恵子と、まったくの偶然で生き残ったぼくが、焼跡にほうり出された。 疎開先へ恵子を迎えに行き、そこは大阪の郊外で、やがて夏にさしかかろうとする淀川の堤防に二人腰を下ろし、食べさせようと持って来た、焼け出されに配られる麦まじりの握り飯を雑嚢から出すと、それはすでに腐りかけ糸をひいている。麦の中から白い米粒をえらんで恵子の口に入れ、恵子は無心に木の玩具をカタカタと鳴らし、淀の川筋を、どういうわけか自転車満載した船が、ゆっくりと下っていった。

◆食欲の前には、すべて愛も、やさしさも色を失った 西宮の、山の近くに部屋を借り、一度、空襲を受けたら、とても防空戦士などと気取ってはいられない。警報発令と同時に、安全度の高い横穴式防空壕に、恵子ひっかかえてとびこみ、臆病者とそしられたが、あのゴーッとうなりをあげておちかかる怖ろしさには勝てない。 貯水池と、そこから流れでる小川があり、夜になると無数の蛍がとびかって、草のしげみに手をのばせば、いくらもとれる。自分の息を胸に吹きかけて、せめて暑さをしのぎたいとこころみるような夏の夜に、蚊帳の中に蛍をはなし、かつて昭和十年であったか、神戸沖で観艦式があり、それを祝って六甲山の中腹に、戦艦をかたどったイルミネーションが夜かがやき、そんなことを蛍の、暗闇に点滅する光に思い出し、低く軍艦マーチをうたうと、恵子はうれしそうに笑った。父の財産は遺されていたが、闇で食料を買う才覚は、まだない。

ぼく自身十四歳で、食べ盛りなのだ。水ばかりといっていい粥を、ぼくが山からとってきた薪と、七輪はないから、まるでキャンプのように石をならべたカマドで炊き、いくら恵子に食べさせなければと考えても、粥をよそう時、どうしても底に沈んだ米粒を自分の茶碗にとり、重湯の部分を恵子に与える。いや、さじでその口に運ぶ時、つい熱いのをさますつもりでふうふう吹くついでに、自分がつるりと飲んでしまう。ぼくは一人っ子で、こらえ性がなくわがままに育った。両親を失い、急速に大人びはしたが、食欲だけは、どうにもならぬ。 日増しに、それでなくても痩せていた恵子は、骨があらわになり、あわててお腹にわるいとわかっていながら、脱脂大豆のフライパンで煎ったのなど与えると、そのままウンチに出た。そのくせ、道ばたの家庭菜園から盗んだトマトを、これは持ってかえって食べさせようと心に決めていても、つい自分の腹中におさめてしまう。 気まぐれな隣人が、恵子に水あめを箸にまきつけてくれれば、これもなめてしまう。食物が眼の前にない時は、いろいろ気づかって、お腹をこわしているようだから、御飯を工作でならったソクイつくるように、ねって与えようとか、香枦園の浜へ行って魚をとって食べさせようと考えるのだが、いざ眼の前にそれをみると、餓鬼に変じてしまう。 恵子を足手まといに感じたことは、ほとんどない。塩が足りないから、四キロあまりを海まで、恵子を背負って歩き、海水をびんにつめてもちかえり、その往きかえりにP51にねらわれ、あわてて夙川の川床にとびおり、すぐ眼の前を機銃の掃射が、キナ臭いにおいとともに走りすぎ、こういう時は恵子をしっかり胸にだいてかばう。おしめの洗濯も苦にならないし、同じ年ごろの中学生の集団のそばを赤ん坊ひっちょって歩くことに恥ずかしさを感じなかった。 ぼくは、恵子を愛していたと自信もっていえるが、食欲の前には、すべて愛も、やさしさも色を失ったのだ。

◆泣き出すと背負って表へ出る。もう蛍もいない 恵子はやがて、夜、ねむらなくなった。たぶん、空腹のためではないかと思う。しずかな赤ん坊だったのに、年中、泣きつづけるようになった。ようやくできた一人歩きも、たちまち逆もどりして、はうのがやっとの状態となった。顔つきも猿に似て来た。 恵子の生命力は、きっと強かったのだろう。骨と皮になっても生きつづけ、いくらとっても、すぐガーゼの肌着の縫い目にびっしりたかる虱とともに生きていた。 夜、ほんの二十分ほど寝ると、たちまち火のついたように泣き出し、これには部屋を借りている家の人が文句をつけた。「家の子供は、昼間、御国のために工場で働いているんですからね、なんとかして下さいよ」五十がらみの未亡人が顔を合わせるといい、いや人のことをいう前に、ぼくも閉口した。

手記が掲載された『婦人公論』1967年3月号 表紙・誌面 泣き出すと背負って表へ出る。もう蛍もいない。養父母の死を悲しむゆとりなどなく、うとうと歩きながら居眠りする具合で、ぼくはついにたまらず恵子をなぐった。はじめはお尻だったが、それでも泣くと、拳をかためて頭をなぐった。頭をなぐられると、恵子は泣きやむ。味をしめて、さすが昼間はやらなかったが、夜は、すぐになぐった。 ぼくは、いくら赤ん坊でも、痛さが身にしみると泣きやむのかと、自分勝手に考えていたのだが、つい最近、ある医者から、赤ん坊はすぐに軽い脳震盪をおこす。たとえば頭をどこかに打ちつけると、一分か二分気を失うが、大人はそれを眠ったとみて気がつかないものだという話をきいた。

この時、ぼくは自分で顔のあおざめるのがはっきりわかった。まるで別の話題から、この説がとび出てきたのだが、恵子の頭をなぐったという罪悪感は、常に心にひっかかっている。恵子は、泣くと痛い目にあう、だから泣かないでいようと思い、しかしつい泣いてコツンをくい、あらしくじったとベロを出しながら泣くのをやめたのではない。ぼくの、ねむい余りのうっぷんこめたコブシでなぐられて気を失っていたのだ。

◆恵子にしてやれなかったことを… 西宮にもいられず、福井県春江に、ぼくたちはながれていき、戦争の終った一週間後、もう泣く力も食べる力もなく、うとうととねむりつづけ、ぼくが銭湯から帰ってくると、恵子は死んでいた。 動かない、息をしてないとわかった時、紀久子の死の際の養父のように、タオルでからだをくるみ医者に走り、混みあう待合室で、錯乱していたのだろう順番を待ち、看護婦に「お嬢ちゃん、どこがお悪いの」ときかれた時、へんに恥ずかしかった。「死んじゃったんです」ぼさっというと、あたりの人間がドヤドヤとかこみ、恵子の額に手をあて、「あ、冷めたくなっとる」「かわいそうに」口々につぶやき、そこへ医者があらわれ、診察室に通しもせず、恵子の胸に聴診器をあて、「栄養不良やな、ようけあるねん」といった。 近くの寺の坊主を頼み、形ばかり経をあげてもらい、紀久子は紀芳久遠童女という戒名だったから、恵子にも頼むと、その坊主、かたわらの紙片に、ただ恵子童女とだけ書き、そのいかにもでたら目な感じに、ぼくは泣いた。 棺は座棺で、燃えにくいからと着物をはがれた恵子の、まさに骨と皮ばかりのからだがおさめられ、その周囲に大豆の枯枝が押しこまれて、いかにも痛そうであった。田圃の真ん中の、石の炉で恵子は木炭によって灰と化し、骨は、拾おうにも細々にくだけ、はじめから終りまで、かたわらにいたのはぼく一人、灰のひとつかみを、古い胃腸薬の空缶に入れてもちかえった。 恵子にしてやれなかったことを、ぼくは麻央にしている、といえる。 あの昭和二十年の夏、十四歳の少年が、一年三ヵ月の赤ん坊を、育てられなかったからといって、別に気にやむことはないだろう。恵子の運がわるかったといえばそれまでだが、しかし一年三ヵ月の赤ん坊の食物のピンをはね、その頭をブンなぐった記憶はなくなるものではない。

麻央がゴーフル、クッキー、チョコレートを食べあらし、さては蜜柑、リンゴ、バナナを食べ残すのをみる時、まったく感傷的といえばそれまでだが、恵子を想い出す。この一片でいいから食べさしてやりたかったと、胸が苦しくなる。贅沢になれた麻央を憎くさえ思う。 タイムマシンがあったら、今あるお菓子をみんなかかえて、恵子に食べさせてやりたい。六月五日の朝から八月二十二日の午後死ぬまで、ついにお腹をすかせっぱなしで死んでしまった女の子なんて、あまりにかわいそう過ぎる。ぼくは恵子のことを考えると、どうにもならなくなってしまうのだ。 ぼくはだから、いい父親ではない。ぼくのような経験は、やはり特殊なもので、麻央に対しても、世の中の父親とは少しちがう。いや、実は同じなのかも知れないが、きっと他の父親はこうではあるまいと思うだけでも、世間並みとはいえぬだろう。 はかなくみじめに死んでしまった二人の妹のイメージが、どうしても重なる年齢に、麻央はいるから、ぼくは父親としての資格はない。 いったいいつまで麻央をかばっていられるか、不安が常にある。 どんな環境におかれても、やさしい心だけは失わぬそしてそのための、父の唄を、ぼくは麻央に残してやりたいとねがう。たとえ、卑怯なぼくが麻央から逃げ出すようなことがあっても、かつてすばらしい父親のあったことを、誇りにできるような、一つの唄を、与えたいと考える。 今のところ、ぼくが娘にしてやれることはこれ以外にない。 『婦人公論』1967年3月号に「プレイボーイの子守唄」


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Last-modified: 2020-08-16 (日) 16:10:00